犬養毅とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や政策内容、五・一五事件の真相も】

犬養毅の功績

功績1「優れた演説や性格から多くの国民に慕われる」

演説をする政友会総裁の頃の犬養毅

犬養は悪や卑劣を憎む性格で藩閥という巨大な権力にも媚びる事はなかった為、国民から慕われていました。ただ思った事をすぐ口に出す性格から政敵も多く、毒舌家とも評されています。

犬養の演説は無駄がなく、そのオーラも相まって、聴く人の背筋が凍る程でした。1925年には政治家を引退するものの、選挙区の岡山の支持者達は勝手に犬養を立候補させ、当選させ続けていたのです。

満州事変の勃発等、軍部が暴走を始める中で犬養が総理大臣になったのは、国民が犬養を支持していたからでした。犬養は軍部に屈する事なく亡くなり、葬儀には2万人もの参列者が集まったそうです。

功績2「普通選挙法を導入し、成年男子全員に参政権を与えた」

護憲三派 犬養毅(左) 高橋是清(左から2番目) 加藤高明(右から2番目)

犬養は1924年に発足した加藤高明内閣の逓信大臣として入閣し、翌年に普通選挙法を成立させます。「25歳以上の全ての男性」が選挙権を持ち、有権者は国民全体の20.1%と元々の5.5%から大幅に拡大しました。

加藤高明内閣の前の清浦奎吾内閣は貴族院議員が主体の内閣でした。貴族院議員は華族等の貴族階級によって構成され、国民の選挙で選ばれていません。犬養は憲政擁護をスローガンに第二次護憲運動を展開しました。

この時に犬養と共に立ち上がったのが、立憲政友会の高橋是清、憲政会の加藤高明でした。彼らの政党と犬養毅が所属する革新倶楽部は護憲三派と呼ばれ、政党内閣の樹立や普通選挙の実現等を政策として掲げました。

護憲三派の主張は国民の支持を受け、1924年の総選挙では、護憲三派が多数の議席を確保します。普通選挙法が成立したのは犬養の功績でしょう。

功績3「アジアとの連携を説き、孫文や蒋介石を支援する 」

頭山満(左)と蒋介石(右)と写真を撮る犬養毅

犬養は日本が欧米と渡り合う為にはアジアの国々が強くなる必要があると考えていました。この思想をアジア主義と呼びます。犬養は頭山満と共に日本を代表するアジア主義の功労者とされており、国外での知名度はとても高いのです。

犬養は孫文や蒋介石等の中国の革命家や、ラース・ビハーリー・ボース等のインドの独立運動家を積極的に支援しています。特に孫文が起こした辛亥革命では犬養自らが中国に渡り、知り合いの生家に匿っています。

犬養のおかげで孫文は中華民国の建国を成功させています。後に孫文が提唱した中国子女の為の学校である中華学校が日本に設立されますが、犬養はそれらの名誉校長を務めていました。

犬養と中国人革命家との信頼は厚く、満州事変の処理についても彼らとのパイプを活かして対処するつもりだったようです。暗殺されなければ、その後の歴史も変わっていたかもしれません。

犬養毅の名言

死の間際にも名言を残している

政党には、党勢拡張、政権獲得などという一種の病気がつきまとう。そのために、あるいは種々の不正手段に出たり、あるいは敵に向かって進む勇気を失ったりすることがある。これを監視し激励するのが言論に従事する人々の責任でなければならぬ。

政党政治は政策の達成ではなく、政権を担う事が目的になる危険性をはらんでいます。犬養は政党政治の問題点を早くから見抜いており、それを監視するのが言論なのだと説いたのです。

四十余年間、政治を専門にやってきたものの、
その間、失敗もしたが成功もしたと言いたいが、
実は失敗だらけである。

犬養が一度政治家を引退した時の声明です。犬養は総裁として復帰するものの統帥権問題で最大の失敗をおかしています。何年政治家を続けても、その政務の難しさが分かります。

9発撃って3発しか当たらぬとは、軍はどういう訓練をしているのか

五・一五事件では9発の弾丸が撃たれ、そのうち3発が犬養に被弾しました。犬養は全弾命中させられなかった軍部の訓練の精度の低さを嘆いたのです。

そんな腕前では日本の将来は不安だと思ったのかもしれません。犬養は死の間際まで日本の未来を憂う政治家の鏡だったと言えますね。

犬養毅の人物相関図

犬養毅の家系図

前述した通り犬養毅のひ孫は安藤サクラですが、彼女は柄本佑と結婚しています。柄本家も多くの俳優が生まれた家系であり、2人の結婚は華麗なる一族とも呼ばれました。

犬養毅にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「犬養毅の先祖は桃太郎の犬?」

桃太郎とお供の雉・犬・猿

犬養は岡山県出身の人物です。犬という苗字と岡山でピンと来るものはありますか?実は犬養の先祖は桃太郎の犬だと言われています。

厳密に言うと犬養家の先祖は古代の皇族の吉備津彦命に仕え、猟犬を飼っていた犬飼健命です。犬飼健命の他に猿飼部楽々森彦命と鳥飼部留玉臣が吉備津彦命に仕えており、彼らは桃太郎の犬猿雉のモデルとなりました。

吉備津彦命が日本書紀に登場するのは3世紀頃。つまり犬養家の血筋もその頃から受け継がれている事が分かります。嘘か本当かは不明なものの、犬養毅はそのように話していたそうですね。

都市伝説・武勇伝2「実は書道の達人だった」

犬養毅(木堂)の書

犬養は書道家としても有名で、書道家として犬養木堂とも名乗っていました。名作と名高いものはなんでも鑑定団で30万円の鑑定結果が出ています。近年の人物であり、本来は政治家という事を考えるとかなりの価格です。

犬養が優れた作品を残せたのは、幼少期から漢詩に親しんでいた事と、多くの作品を見る機会があったからでした。議会の間に犬養は新聞記者にお願いされて、様々な名作を書き上げたといわれます。

犬養は書道の極意として以下のように述べました。

書の巧拙は技術に属し、品格の高卑は天分に属する。運筆がいかに巧でも、技巧がいかに妙でも、品性の卑しい人には崇高な文字はできぬ。

品性が高尚でも、技術を学ばねば、品性を写し出すことができぬ

つまり品性と技巧が備わって初めて名作が生まれるということです。岡山にある犬養の生家の隣には犬養木堂記念館が建てられており、様々な書が展示されています。興味があれば足を運んでみましょう。

都市伝説・武勇伝3「暗殺は自分が招いた種だった?統帥権干犯問題」

ロンドン海軍軍縮会議の全権達

軍部に抵抗し続けたイメージのある犬養ですが、そもそも軍部の暴走のきっかけを作ったのも犬養だった事はご存知でしょうか。

1930年に補助艦の保有量を決めるロンドン海軍軍縮会議が開かれ、民政党の浜口雄幸内閣は軍の許可なく保有量を決定しています。犬養が率いる政友会は野党だった為、許可のない批准に猛反発しています。

犬養と鳩山一郎は浜口内閣にこのように攻撃しました。

軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である

犬養は「軍の意見を無視して条約に調印したのは天皇の持つ統帥権(軍を動かす権利)を犯した」と述べたのですが、言い換えれば「軍は政府の言うは聞かずに、天皇にさえ責任を負えば良い」と言う事になります。

この発言をもとに軍部は暴走を続け、後の満州事変に繋がっていくのです。

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