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犬養毅とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や政策内容、五・一五事件の真相も】

犬養毅にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「犬養毅の先祖は桃太郎の犬?」

桃太郎とお供の雉・犬・猿

犬養は岡山県出身の人物です。犬という苗字と岡山でピンと来るものはありますか?実は犬養の先祖は桃太郎の犬だと言われています。

厳密に言うと犬養家の先祖は古代の皇族の吉備津彦命に仕え、猟犬を飼っていた犬飼健命です。犬飼健命の他に猿飼部楽々森彦命と鳥飼部留玉臣が吉備津彦命に仕えており、彼らは桃太郎の犬猿雉のモデルとなりました。

吉備津彦命が日本書紀に登場するのは3世紀頃。つまり犬養家の血筋もその頃から受け継がれている事が分かります。嘘か本当かは不明なものの、犬養毅はそのように話していたそうですね。

都市伝説・武勇伝2「実は書道の達人だった」

犬養毅(木堂)の書

犬養は書道家としても有名で、書道家として犬養木堂とも名乗っていました。名作と名高いものはなんでも鑑定団で30万円の鑑定結果が出ています。近年の人物であり、本来は政治家という事を考えるとかなりの価格です。

犬養が優れた作品を残せたのは、幼少期から漢詩に親しんでいた事と、多くの作品を見る機会があったからでした。議会の間に犬養は新聞記者にお願いされて、様々な名作を書き上げたといわれます。

犬養は書道の極意として以下のように述べました。

書の巧拙は技術に属し、品格の高卑は天分に属する。運筆がいかに巧でも、技巧がいかに妙でも、品性の卑しい人には崇高な文字はできぬ。

品性が高尚でも、技術を学ばねば、品性を写し出すことができぬ

つまり品性と技巧が備わって初めて名作が生まれるということです。岡山にある犬養の生家の隣には犬養木堂記念館が建てられており、様々な書が展示されています。興味があれば足を運んでみましょう。

都市伝説・武勇伝3「暗殺は自分が招いた種だった?統帥権干犯問題」

ロンドン海軍軍縮会議の全権達

軍部に抵抗し続けたイメージのある犬養ですが、そもそも軍部の暴走のきっかけを作ったのも犬養だった事はご存知でしょうか。

1930年に補助艦の保有量を決めるロンドン海軍軍縮会議が開かれ、民政党の浜口雄幸内閣は軍の許可なく保有量を決定しています。犬養が率いる政友会は野党だった為、許可のない批准に猛反発しています。

犬養と鳩山一郎は浜口内閣にこのように攻撃しました。

軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である

犬養は「軍の意見を無視して条約に調印したのは天皇の持つ統帥権(軍を動かす権利)を犯した」と述べたのですが、言い換えれば「軍は政府の言うは聞かずに、天皇にさえ責任を負えば良い」と言う事になります。

この発言をもとに軍部は暴走を続け、後の満州事変に繋がっていくのです。

犬養毅の簡単年表

1855年
犬養毅誕生

1855年6月4日に備中国賀陽郡川入村(現在の岡山県岡山市)にて誕生します。幼き頃から漢学や経学等を学び学業の面で頭角を現したそうです。

1876年 - 21歳
上京して慶應義塾に通う

上京して慶應義塾に通います。学費を稼ぐ為に新聞社に記事を寄稿する等忙しい日々を送ります。本格的に記者としての道を歩む為、1880年に慶應義塾を卒業直前に中退しました。

1882年 - 27歳
立憲改進党に入党

1880年頃に大隈重信と出会い親交を深めます。後に大隈が結成した立憲改進党に入党し、国会開設に向けて活動を続けました。

1890年 - 36歳
第一回衆議院議員選挙に当選する

第一回衆議院議員選挙に岡山から立候補し、大差で当選。以降は42年間の議員生活で18回連続当選という記録を打ち立てます。以降様々な政党を結成し、民主政治の重要性を説きました。

1913年 - 59歳
第1次護憲運動を起こす

第三次桂太郎内閣に対して尾崎行雄と共に不信任案を提出。桂太郎内閣の倒閣に大きな影響を与え、憲政の神様と呼ばれます。しかし犬養の所属する立憲国民党は桂太郎により勢力を削がれ、長年にわたり苦労を重ねます。

1925年 - 70歳
政治家を引退を決意する

超然内閣である清浦奎吾内閣に対し、犬養は護憲三派と共に第二次護憲運動を展開。犬養は加藤高明内閣の逓信大臣として普通選挙法成立に尽力しました。

1925年には政治家を引退しますが、同郷の人達がそれを許さない状況が続きます。

1929年 - 74歳
政友会の総裁となる

政友会の総裁のポストが空くと犬養は総裁に担ぎ上げられます。1931年には軍部の暴走の原因となる統帥権干犯問題を引き起こします。

1931年 - 76歳
内閣総理大臣に就任

民政党の第二次若槻禮次郎内閣が退陣し、政友会が与党となります。犬養は総理大臣となり、昭和恐慌からの一早い脱却を図りました。

1932年 - 76歳
五・一五事件で暗殺される

満州国の承認について消極的な態度をとった為、犬養は海軍の若手将校から恨みを買いました。1932年五・一五事件で暗殺され、76歳で生涯を終えました。

犬養毅の年表

1855年 – 0歳「犬養毅誕生」

犬養毅の生家

代々庄屋を務めた犬養家

犬養毅は1855年6月4日に備中国賀陽郡川入村で犬飼源左衛門と嵯峨の次男として誕生します。犬養家は庭瀬藩で代々庄屋を務めた一族であり、苗字帯刀を許された名家でした。

源左衛門の苗字が犬飼なのは誤植ではなく、犬養家の人々は代々「犬飼」と「犬養」を使い分けていました。犬養毅は1875年頃から「犬養」を自分の苗字として名乗っています。

幼き頃から勉学に励む

父親の源左衛門は儒学者であり、犬養も幼少期から手ほどきを受けています。5歳の頃には儒教の教えである四書五経を父から教わりました。

6歳の頃には庭瀬藩医の森田月瀬に漢学を学び、10歳の頃には犬養松窓の三餘塾に入り経学を修めています。犬養は父の才能を受け継ぎ、優れた成績を修めています。父は犬養を立派な学者にしたいと考えていたのです。

1868年 – 13歳「父である源左衛門の死」

犬養松窓の著した「孫子活説」版木

犬養家の明治維新

1868年に江戸時代が終わり明治を迎えますが、父である源左衛門が病死。家督は兄が継いだものの、犬養家は没落していきます。生活は苦しくなり、今までのように余裕を持って漢学に励む事は出来ませんでした。

犬養は兄に頼らずに生活と勉学を両立する為、自宅の一室で寺子屋を開いています。後に犬養松窓が倉敷の明倫館へ招かれると、犬養は母方の親戚の家に居候して松窓から教えを受けました。

上京して洋学を学ぶ事を決意する

1871年の廃藩置県により庭瀬藩は小田県となり、犬養は県庁職員として働きます。この頃から漢学だけでなく西洋学にも興味を持ちはじめ、国際法や議会政治等の政治思想や法律学を独学で学びました。

犬養は本格的に勉強をしたいと決意。当時の犬養家には上京させる財力はありませんでしたが、姉の夫が商業で成功した経緯もあり、様々な工面を経て上京します。1874年、犬養が19歳の時でした。

1874年 – 19歳「上京し慶應義塾に通う」

郵便報知新聞をもとにした錦絵新聞

貧乏学生だった犬養毅

上京した犬養は学費と寮費が安く、英語も学べる共慣義塾に通います。収入源として郵便報知新聞への寄稿(原稿を書き送る事)を始めました。なお犬養は共慣義塾で英語の初歩を学びますが、寮の環境はかなり劣悪でした。

1876年には寄稿料を元手に慶應義塾に転学。寮の環境はいくらか改善し、英語もより詳しく学ぶ事が出来たようです。この頃の犬養は一切友人と交際する事なく勉学に励んでいます。

1877年 – 22歳「西南戦争後に慶應義塾を退学する」

西南戦争にて出陣する不平士族達

学費の為に西南戦争に参加する

1877年に士族の反乱である西南戦争が起こると、犬養は郵便報知新聞から従軍記者として記事を書く事を打診されます。学費の援助を提案され、犬養は慶應義塾を休学して戦地へと赴きました。

犬養は3月に田原坂の戦いが行われる戦地に到着。犬養は銃撃戦の中を走り、野宿や夜戦にも加わります。記事は「戦地直報」と題され、戦地の状況を生彩に生々しく書き上げた事から高い評価を受けました。

慶應義塾を退学する

西南戦争帰還後は、郵便報知新聞から記事の本数を増やすよう強要された為、程なく関係を断ちました。その後は同郷の友人から翻訳文添削の仕事を回してもらい、学費を稼ぎます。

1880年に犬養は栗本鋤雲に誘われて、卒業間近の慶應義塾を中退。本格的に記者としての道を歩みました。8月には財閥三菱の支援を受けて「東海経済新報」を創刊。ジャーナリストとして犬養は頭角を現していくのです。

1881年 – 26歳「大隈重信と出会う」

大隈重信

大隈重信との出会い

この頃に犬養は大隈重信と出会っています。当時の明治政府は薩摩や長州の出身者が藩閥政治を行っていましたが、大隈は国会開設や民主的な政党政治の重要性を説き、藩閥政治に対抗していました。

大隈は犬養のジャーナリストとしての熱意と才能を認め、国会開設が実現した時に政府委員になって欲しいとお願いしています。1881年7月に犬養は大隈の推薦で統計院権少書記官に任命され、役人となりました。

明治十四年の政変

それから3ヶ月後、明治十四年の政変が起こります。大隈重信が政府から追放された他、政府は10年以内に国会を開設すると詔を出しました。犬養や尾崎行雄等、大隈派の一派も大隈と共に下野しています。

なお大隈は自身の意見を世に伝える為、郵便報知新聞社を買収。犬養は郵便報知新聞社に復籍し、大隈の意見を世の中に広めていく使命を得ました。

1882年 – 27歳「立憲改進党に入党」

立憲改進党のメンバー達

大隈重信が立憲改進党を立ち上げる

大隈は国会開設に向けて1882年に立憲改進党を立ち上げ、犬養も入党。立憲君主制・二院制議会・制限選挙等を政策に掲げ、大地主や都市の実業家などに支持されています。同時期に板垣退助も自由党を立ち上げました。

政府は新聞紙条例や集会条例を改悪し、言語活動を激しく規制し、国会開設運動は徐々に下火となりました。この頃犬養は秋田日報の主筆として秋田県に出向いた他、1890年まで様々な新聞社に在籍しています。

朝鮮に赴く

1884年12月に朝鮮で甲申事変が起こり、犬養は郵便報知新聞社特派員として朝鮮に赴きます。甲申事変の首謀者の金玉均は日本に亡命し、犬養の隣人宅に身を寄せた時があり、犬養は親交を深めています。

後に犬養は何度か中国へ向かい、孫文や蒋介石との交流を深めていきますが、特派員としての経験が活かされているのです。

1890年 – 35歳「議員に当選する」

保安条例の風刺画

政治家を志す

1886年には国会開設運動が再熱。後藤象二郎は自由党や立憲改進党の合同を図る大同団結運動を展開します。政府は1887年に保安条例を制定し、秘密の集会を禁じた他、治安を乱す者を東京から退却する権限を持ちました。

一方で運動の骨抜きを図る為、1888年に立憲改進党の党首の大隈を、1889年に大同団結運動を立ち上げた後藤をそれぞれ内閣に入閣させています。犬養は政府の対応を批判し、ジャーナリストから政治家になる事を決意します。

第一回総選挙

1890年には総選挙が行われ、犬養は新聞社を辞めて同郷の岡山から立候補します。大隈が多額の選挙資金を渡すものの、犬養はほとんど資金に手をつけずに演説の力で大差で当選しました。

ちなみにこの時の選挙は「直接国税15円以上を納める25歳以上の男子」に制限され、有権者は国民全体の1.1%程でした。定員300人に対し、自由党130人、立憲改進党41人と民党が過半数の議席を確保しました。

1894年 – 39歳「様々な政党を立ち上げる」

日本初の政党内閣だった隈板内閣

第ニ回衆議院選挙

犬養はこの頃、以下のような政党を立ち上げて藩閥主義に抵抗しています。

  • 中国進歩党(1894〜1896年)
  • 岡山県の代議士達で結成した地域政党。実質的に立憲改進党の別働隊。
  • 進歩党(1896〜1898年)
  • 立憲改進党や中国進歩党など7政党が合同して結成。
  • 憲政党(1898〜1900年)
  • 進歩党と板垣退助の自由党が合同して結成。

党の指導的立場になる

進歩党の実質的な党首だった大隈は1896年にら松方正義内閣の外務大臣に就任しています。犬養は進歩党の総務委員となりました。松方内閣では新聞紙条例が一部改正される等、進歩党の意見もいくらか反映されています。

1898年6月には憲政党による内閣が樹立。大隈が総理大臣に、板垣が内務大臣に就任した為、隈板内閣と呼ばれました。犬養は10月に文部大臣に就任するものの、派閥抗争の激化により11月に内閣は総辞職しています。

結果的に憲政党は旧自由党派と旧進歩党派に分裂。旧自由党派の人達は伊藤博文が立ち上げた立憲政友会に合流し、旧進歩党の人達は大隈を党首に憲政本党を立ち上げます。当時の政党は分裂と合同の繰り返しでした。

1907年 – 52歳「憲政本党内の対立が激化する」

若い頃の犬養毅

立憲政友会が政権を担う

1904年に勃発した日露戦争で日本は辛くも勝利します。当時総理大臣だったのは長州藩の桂太郎であり、講和条約であるポーツマス条約を締結しました。

条約の内容について立憲政友会(以下政友会)は賛成の立場をとり、憲政本党は反対の立場をとります。結果的に内閣と立憲政友会は連携を深める事になり、桂太郎内閣退陣後は政友会の西園寺公望が政権を担いました。

憲政本党内の対立が激化する

憲政本党は1907年に大隈が党首を引退。党内では政府に接近する改革派、国民の為の政治を主張する非改革派の争いが激しくなります。犬養は非改革派の先頭に立ち、一貫して民主政治の重要性を説きました。

結果的には改革派から逮捕者が出た事もあり、犬養達非改革派が憲政本党の主導権を握ります。1910年に憲政本党は他の非政友会系の政党が合同する形で立憲国民党となりました。

1913年 – 59歳「第一次護憲運動を起こす」

桂太郎

大正政変が勃発する

1912年に第二次西園寺内閣は陸軍と予算で対立し、総辞職を余儀なくされます。その後桂太郎が3度目の内閣を発足すると、犬養は長年対立していた政友会と手を組み、前述した第一次護憲運動を展開しました。

犬養の尽力で桂太郎内閣は倒閣しますが、立憲国民党は苦しい状況が続きます。桂太郎が発足した立憲同志会に多数の党員が寝返り、立憲国民党は勢力を削がれてしまいます。

更に桂太郎内閣の後に発足した第一次山本権兵衛内閣では政友会の党員が多数入閣し、立憲国民党に出番は回って来ませんでした。犬養は立憲国民党の党首になるものの、政友会、立憲同志会という二大政党に押され続けます。

1924年 – 70歳「第ニ次護憲運動を起こす」

護憲三派による懇親会

革新倶楽部を立ち上げる

1922年に犬養は立憲国民党を解散し、革新倶楽部を立ち上げます。1923年8月に関東大震災が発生すると、犬養は逓信大臣として第二次山本権兵衛内閣に入閣。郵便や通信インフラの復旧、NHKの創設に尽力しました。

第二次護憲運動を展開する

第二次山本権兵衛内閣が退陣すると1924年1月には清浦奎吾内閣が発足します。この内閣は政党からの入閣はなく、貴族院を背景に組閣されています。

時代錯誤な内閣が発足された経緯として、当時総理大臣を決めていた西園寺公望の思惑がありました。政友会や憲政会(立憲同志会の後継政党)は政権争いに終始し、国民の為に政治をしているとは言いがたい状況でした。

5月には総選挙が行われる為、どこかの政党に政権を任せると、自分の政党に有利な工作をする可能性があり、あえて官僚に総理大臣を任せたと言われます。

結果的に犬養の革新倶楽部、高橋是清の政友会、加藤高明の憲政会は護憲三派として、政党内閣復活を掲げて立ち上がりました。第二次護憲運動の背景には政党政治が政権争いにすり替わっていた経緯もあるのです。

1924年 – 70歳「加藤高明内閣発足」

加藤高明内閣(犬養は逓信大臣として入閣した)

第15回衆議院議員総選挙

1924年5月10日に衆議院議員総選挙が行われ、結果は以下のようになりました。

  • 総議席 281
  • 憲政会 151議席
  • 立憲政友会 100議席革新倶楽部 30議席
  • 政友本党 116議席
  • その他 67議席

清浦内閣を支持していた政友本党は議席を減らしています。これは護憲三派が国民に支持された事を示しており、憲政会の加藤高明を党首した「護憲三派連立内閣」が発足します。

政治家を引退する

加藤高明内閣で犬養は逓信大臣として入閣し、悲願だった普通選挙法を成立させました。しかし加藤高明内閣のポストは憲政会:政友会:革新倶楽部 = 3:2:1となっており、犬養は随分苦労を重ねたそうです。

犬養は普通選挙法制定を自らの花道とし、1925年5月に革新倶楽部を政友会に吸収させて政治家を引退しました。しかし世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者は勝手に犬養を立候補させて、選挙で当選させていました。

1929年 – 75歳「政友会総裁に任命される」

政友会総裁だった田中義一

憲政会と政友会

犬養が引退している頃、憲政会と政友会は早速分裂し、1926年には護憲三派連立内閣は憲政会単独内閣となりました。これ以降、日本は憲政会と政友会という二大政党が政権を担う憲政の常道が確立しています。

政友会総裁となる

1929年に犬養は政友会総裁のポストに任命されます。革新倶楽部等の少数政党を率いていた犬養は、急に二大政党の総裁という大役を任せられたのです。しかし引退していた4年の間に政友会の勢力図は様変わりしていました。

政友会は1925年に長州閥の軍人であった田中義一が総裁に任命されています。田中は政友会を親軍的、保守的な政党に塗り替えており、伊藤博文や西園寺公望が総裁を務めていた頃の政友会の面影はありませんでした。

その後、田中は1929年に急死。総裁の地位を狙い政友会内で深刻な争いが起きていました。犬養が総裁に任命されたのは、これらの勢力の押さえ込みを図る目的があったのです。

田中義一とはどんな人?生涯・年表まとめ【モラトリアム政策や田中内閣の外交、死因についても紹介】

1931年 – 75歳「統帥権干犯問題」

犬養毅と共に統帥権干犯問題を引き起こした鳩山一郎

ロンドン海軍軍縮会議

田中が総理大臣を辞任後は、民政党(憲政会の後継政党)が政権を担っていました。犬養が民政党を批判したのは1930年には「暗殺は自分が招いた種だった?統帥権干犯問題」で紹介した通りです。

結果的に浜口内閣の金解禁の失政も相まって、統帥権干犯問題は大きな問題となりました。1930年には浜口は東京駅で狙撃され、翌年にその傷により亡くなっています。

犬養の最大の失敗

この統帥権干犯問題は犬養の評価を下げるものとなりました。「兵力差の決定」は重要な国務であり、それを内閣の管轄外だと言った事で、政府は軍部のコントロールが出来なくなるのでした。

1931年9月18日には柳条湖事件をきっかけに満州事変が起こり、第二次若槻禮次郎内閣はその処理に失敗し総辞職しました。軍部の暴走を政府は止める事が出来なくなっていくのです。

1931年 – 76歳「犬養内閣発足」

犬養内閣発足時の様子

犬養内閣発足

憲政の常道に従って政友会に政権が移り、12月に犬養毅内閣が発足します。犬養が初めて衆議院議員になって実に41年もの歳月が経っていたのです。主な政策は「犬養内閣で行った政策の内容とは?」で述べた通りです。

犬養は軍備と財政の協調を図る経済軍備論、中国とのパイプを活かした満州事変の処理など、独自の政策を温めていました。総理大臣となり犬養はようやく自分の政策を実行出来る立場になったのです。

ファシズムの流れを止められず

暴走し始めた軍部ですが、内閣でも軍部に歩み寄る政治家は数多くいました。犬養は中国国民党幹部と非公式の講話の場を画策しますが、犬養の外交を批判していた内閣書記官長の森恪に握り潰されていたのです。

そして犬養は一部の陸軍の青年将校の行動に不安を抱き、陸軍の長老に相談していました。その将校達を免官させる計画を森に話した結果、森は陸軍に計画を話してしまいます。陸軍は統帥権の干犯だと犬養を批判しました。

「統帥権」という言葉は犬養の想像を遥かに超え、コントロールの及ばない事態になっていくのです。

1932年 – 76歳「五・一五事件により暗殺される」

犬養毅の葬儀の様子

五・一五事件により暗殺される

前述した通り、犬養は1932年5月15日に海軍の若手将校により暗殺されました。「話せばわかる」という言葉は命乞いではなく、最後まで対話を重視した犬養ならではの言葉でした。

五・一五事件の発端は与党だった民政党がロンドン海軍軍縮条約に調印した事です。犬養は条約に関与せず、むしろ「統帥権の干犯」という言葉を生み出した経緯から、軍部に感謝されても良かったはずです。

ただ若手将校達はこれらの政治的な背景を把握しないままに総理大臣を標的にした為、犬養は暗殺されたのでした。統帥権干犯問題は犬養にブーメランのように跳ね返ってきたのです。

政党政治の終わり

犬養暗殺後に総理大臣になったのは海軍軍人の斎藤実でした。元々は政友会総裁の鈴木喜三郎が任命される予定でしたが、ファシズムに近い人物だった為、西園寺公望は危険と判断。穏健派の斎藤に白羽の矢が立ったのです。

西園寺は時が来れば政党内閣を復活させる予定でしたが、結果的に犬養内閣は戦前最後の政党内閣となりました。犬養達が積み上げた戦前の政党政治は、皮肉にも犬飼の死をもって終わりを迎えたのでした。

犬養毅の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

狼の義 新 犬養木堂伝

2017年に逝去した林新の意志を継いで堀川惠子が書き上げた小説です。西南戦争から五・一五事件という政党政治の始まりと終わりまでの道程が犬養の時点で描かれており、その苦悩や葛藤が伝わってきます。

歴史書としても小説としても読みやすいので、犬養毅を知る上ではオススメの1冊です。

五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」

五・一五事件で犬養毅が暗殺された時、多くの助命嘆願書が政府に届きました。青年将校達にこれだけの同情が集まったのは何故でしょうか?本書は五・一五事件前後の歴史や思想、様々な切り口で考察がされています。

五・一五事件について更に深く学びたい時にオススメの一冊です。

池上彰と学ぶ日本の総理 第24号 犬養毅 (小学館ウィークリーブック)

池上彰と共に総理大臣について学ぶ事が出来るウィークリーブックです。犬養内閣発足時の国内や世界の情勢や、内閣の政策などが分かりやすい書かれています。犬養毅の生涯を分かりやすく知りたい方におススメです。

おすすめの動画

【演説】犬養毅「新内閣の責務」 1932総選挙 Japanese PM TSUYOSHI INUKAI

五・一五事件直前の犬養の演説であり、江戸時代生まれの人物の肉声という意味でも貴重です。動画は音声のみですが、演説内容が文字で表示されている為分かりやすくなっています。

聴く者の背筋を凍らせる程の演説を是非直接聞きたいと思いました。

憲政の神様 犬養毅

犬養毅の生涯をダイジェストで紹介した動画です。幼少期の写真から大物政治家との集合写真等、犬養の貴重な写真がたくさん載せられています。5分程で観れるので、簡単に犬養について知りたい時にもオススメです。

五・一五事件 「話せばわかる」の真実とは?

五・一五事件が起きた日、首相官邸には家政婦がいて、その一部始終を見ていたそうです。目撃者による生々しい証言が事件の深刻さを克明にしています。

おすすめドラマ

今のところ犬養毅を主役にした映画やドラマはありません。ただ五・一五事件は軍部の暴走を象徴する事件なので、戦前を舞台にした映画では物語のターニングポイントとして登場する事がありますね。

経世済民の男 高橋是清

オダギリジョー演じる高橋是清の生涯を描いた作品です。高橋は犬養内閣の大蔵大臣に就任した他、護憲運動でも共に活躍しており、高橋の人生を語る上で重要な役回りです。

犬養毅を演じているのは舘ひろしであり、白髪で白髭という珍しい姿を観る事が出来ます。

いだてん〜東京オリムピック噺〜

2019年の大河ドラマであり、東京オリンピックを題材にした作品です。犬養は28話の「走れ大地を」に登場しており、平和の式典であるオリンピックに好意的な姿勢を見せていました。

犬養を演じるのはベテラン俳優の塩見省三です。登場したのは僅か1話だったものの、五・一五事件の壮絶な最期は話題になり、Twitterでも大きな話題となりました。

関連外部リンク

犬養毅についてのまとめ

今回は犬養毅の生涯について解説しました。犬養毅の生涯が分かりにくいのは、戦前の政治の背景をしっかりと把握する必要があるからだと思います。戦前の日本に政党政治を根付かせたのは間違いなく犬養毅の功績でした。

一方で晩年の統帥権干犯問題は軍部の暴走に繋がる失言でした。五・一五事件の最期はある意味で因果応報だったとも言えるのです。犬養毅を知ると政治家が持つ言葉の重みを感じさせます。

今回の記事を通じて犬養毅に興味を持っていただけたら幸いです。

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