1882年 – 27歳「立憲改進党に入党」
大隈重信が立憲改進党を立ち上げる
大隈は国会開設に向けて1882年に立憲改進党を立ち上げ、犬養も入党。立憲君主制・二院制議会・制限選挙等を政策に掲げ、大地主や都市の実業家などに支持されています。同時期に板垣退助も自由党を立ち上げました。
政府は新聞紙条例や集会条例を改悪し、言語活動を激しく規制し、国会開設運動は徐々に下火となりました。この頃犬養は秋田日報の主筆として秋田県に出向いた他、1890年まで様々な新聞社に在籍しています。
朝鮮に赴く
1884年12月に朝鮮で甲申事変が起こり、犬養は郵便報知新聞社特派員として朝鮮に赴きます。甲申事変の首謀者の金玉均は日本に亡命し、犬養の隣人宅に身を寄せた時があり、犬養は親交を深めています。
後に犬養は何度か中国へ向かい、孫文や蒋介石との交流を深めていきますが、特派員としての経験が活かされているのです。
1890年 – 35歳「議員に当選する」
政治家を志す
1886年には国会開設運動が再熱。後藤象二郎は自由党や立憲改進党の合同を図る大同団結運動を展開します。政府は1887年に保安条例を制定し、秘密の集会を禁じた他、治安を乱す者を東京から退却する権限を持ちました。
一方で運動の骨抜きを図る為、1888年に立憲改進党の党首の大隈を、1889年に大同団結運動を立ち上げた後藤をそれぞれ内閣に入閣させています。犬養は政府の対応を批判し、ジャーナリストから政治家になる事を決意します。
第一回総選挙
1890年には総選挙が行われ、犬養は新聞社を辞めて同郷の岡山から立候補します。大隈が多額の選挙資金を渡すものの、犬養はほとんど資金に手をつけずに演説の力で大差で当選しました。
ちなみにこの時の選挙は「直接国税15円以上を納める25歳以上の男子」に制限され、有権者は国民全体の1.1%程でした。定員300人に対し、自由党130人、立憲改進党41人と民党が過半数の議席を確保しました。
1894年 – 39歳「様々な政党を立ち上げる」
第ニ回衆議院選挙
犬養はこの頃、以下のような政党を立ち上げて藩閥主義に抵抗しています。
- 中国進歩党(1894〜1896年)
- 岡山県の代議士達で結成した地域政党。実質的に立憲改進党の別働隊。
- 進歩党(1896〜1898年)
- 立憲改進党や中国進歩党など7政党が合同して結成。
- 憲政党(1898〜1900年)
- 進歩党と板垣退助の自由党が合同して結成。
党の指導的立場になる
進歩党の実質的な党首だった大隈は1896年にら松方正義内閣の外務大臣に就任しています。犬養は進歩党の総務委員となりました。松方内閣では新聞紙条例が一部改正される等、進歩党の意見もいくらか反映されています。
1898年6月には憲政党による内閣が樹立。大隈が総理大臣に、板垣が内務大臣に就任した為、隈板内閣と呼ばれました。犬養は10月に文部大臣に就任するものの、派閥抗争の激化により11月に内閣は総辞職しています。
結果的に憲政党は旧自由党派と旧進歩党派に分裂。旧自由党派の人達は伊藤博文が立ち上げた立憲政友会に合流し、旧進歩党の人達は大隈を党首に憲政本党を立ち上げます。当時の政党は分裂と合同の繰り返しでした。
1907年 – 52歳「憲政本党内の対立が激化する」
立憲政友会が政権を担う
1904年に勃発した日露戦争で日本は辛くも勝利します。当時総理大臣だったのは長州藩の桂太郎であり、講和条約であるポーツマス条約を締結しました。
条約の内容について立憲政友会(以下政友会)は賛成の立場をとり、憲政本党は反対の立場をとります。結果的に内閣と立憲政友会は連携を深める事になり、桂太郎内閣退陣後は政友会の西園寺公望が政権を担いました。
憲政本党内の対立が激化する
憲政本党は1907年に大隈が党首を引退。党内では政府に接近する改革派、国民の為の政治を主張する非改革派の争いが激しくなります。犬養は非改革派の先頭に立ち、一貫して民主政治の重要性を説きました。
結果的には改革派から逮捕者が出た事もあり、犬養達非改革派が憲政本党の主導権を握ります。1910年に憲政本党は他の非政友会系の政党が合同する形で立憲国民党となりました。
1913年 – 59歳「第一次護憲運動を起こす」
大正政変が勃発する
1912年に第二次西園寺内閣は陸軍と予算で対立し、総辞職を余儀なくされます。その後桂太郎が3度目の内閣を発足すると、犬養は長年対立していた政友会と手を組み、前述した第一次護憲運動を展開しました。
犬養の尽力で桂太郎内閣は倒閣しますが、立憲国民党は苦しい状況が続きます。桂太郎が発足した立憲同志会に多数の党員が寝返り、立憲国民党は勢力を削がれてしまいます。
更に桂太郎内閣の後に発足した第一次山本権兵衛内閣では政友会の党員が多数入閣し、立憲国民党に出番は回って来ませんでした。犬養は立憲国民党の党首になるものの、政友会、立憲同志会という二大政党に押され続けます。
1924年 – 70歳「第ニ次護憲運動を起こす」
革新倶楽部を立ち上げる
1922年に犬養は立憲国民党を解散し、革新倶楽部を立ち上げます。1923年8月に関東大震災が発生すると、犬養は逓信大臣として第二次山本権兵衛内閣に入閣。郵便や通信インフラの復旧、NHKの創設に尽力しました。
第二次護憲運動を展開する
第二次山本権兵衛内閣が退陣すると1924年1月には清浦奎吾内閣が発足します。この内閣は政党からの入閣はなく、貴族院を背景に組閣されています。
時代錯誤な内閣が発足された経緯として、当時総理大臣を決めていた西園寺公望の思惑がありました。政友会や憲政会(立憲同志会の後継政党)は政権争いに終始し、国民の為に政治をしているとは言いがたい状況でした。
5月には総選挙が行われる為、どこかの政党に政権を任せると、自分の政党に有利な工作をする可能性があり、あえて官僚に総理大臣を任せたと言われます。
結果的に犬養の革新倶楽部、高橋是清の政友会、加藤高明の憲政会は護憲三派として、政党内閣復活を掲げて立ち上がりました。第二次護憲運動の背景には政党政治が政権争いにすり替わっていた経緯もあるのです。
1924年 – 70歳「加藤高明内閣発足」
第15回衆議院議員総選挙
1924年5月10日に衆議院議員総選挙が行われ、結果は以下のようになりました。
- 総議席 281
- 憲政会 151議席
- 立憲政友会 100議席革新倶楽部 30議席
- 政友本党 116議席
- その他 67議席
清浦内閣を支持していた政友本党は議席を減らしています。これは護憲三派が国民に支持された事を示しており、憲政会の加藤高明を党首した「護憲三派連立内閣」が発足します。
政治家を引退する
加藤高明内閣で犬養は逓信大臣として入閣し、悲願だった普通選挙法を成立させました。しかし加藤高明内閣のポストは憲政会:政友会:革新倶楽部 = 3:2:1となっており、犬養は随分苦労を重ねたそうです。
犬養は普通選挙法制定を自らの花道とし、1925年5月に革新倶楽部を政友会に吸収させて政治家を引退しました。しかし世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者は勝手に犬養を立候補させて、選挙で当選させていました。
1929年 – 75歳「政友会総裁に任命される」
憲政会と政友会
犬養が引退している頃、憲政会と政友会は早速分裂し、1926年には護憲三派連立内閣は憲政会単独内閣となりました。これ以降、日本は憲政会と政友会という二大政党が政権を担う憲政の常道が確立しています。
政友会総裁となる
1929年に犬養は政友会総裁のポストに任命されます。革新倶楽部等の少数政党を率いていた犬養は、急に二大政党の総裁という大役を任せられたのです。しかし引退していた4年の間に政友会の勢力図は様変わりしていました。
政友会は1925年に長州閥の軍人であった田中義一が総裁に任命されています。田中は政友会を親軍的、保守的な政党に塗り替えており、伊藤博文や西園寺公望が総裁を務めていた頃の政友会の面影はありませんでした。
その後、田中は1929年に急死。総裁の地位を狙い政友会内で深刻な争いが起きていました。犬養が総裁に任命されたのは、これらの勢力の押さえ込みを図る目的があったのです。
田中義一とはどんな人?生涯・年表まとめ【モラトリアム政策や田中内閣の外交、死因についても紹介】
1931年 – 75歳「統帥権干犯問題」
ロンドン海軍軍縮会議
田中が総理大臣を辞任後は、民政党(憲政会の後継政党)が政権を担っていました。犬養が民政党を批判したのは1930年には「暗殺は自分が招いた種だった?統帥権干犯問題」で紹介した通りです。
結果的に浜口内閣の金解禁の失政も相まって、統帥権干犯問題は大きな問題となりました。1930年には浜口は東京駅で狙撃され、翌年にその傷により亡くなっています。
犬養の最大の失敗
この統帥権干犯問題は犬養の評価を下げるものとなりました。「兵力差の決定」は重要な国務であり、それを内閣の管轄外だと言った事で、政府は軍部のコントロールが出来なくなるのでした。
1931年9月18日には柳条湖事件をきっかけに満州事変が起こり、第二次若槻禮次郎内閣はその処理に失敗し総辞職しました。軍部の暴走を政府は止める事が出来なくなっていくのです。
おもろい
ありがとうございました