足利義満は僅か10歳で征夷大将軍に任命された室町幕府の第3代将軍です。当時は南北朝時代の動乱も収まらず室町幕府の基盤も弱い時代でしたが、義満は幕府の権威向上に努め室町幕府繁栄の礎を築きました。室町幕府は1467年の応仁の乱まで比較的安定していましたが、それは義満のおかげです。
ただ義満の功績や人物像について聞かれても、分からない人も多いのではないでしょうか。義満は政治面で抜群の功績を残しただけではありません。金閣寺の創設や北山文化の発展など、芸術面でも多大なる貢献を残しました。
今回はそんな足利義満の濃密で波乱万丈な生涯を解説していきます。
この記事を書いた人
Webライター
Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。
足利義満とはどんな人物か
名前 | 足利義満 |
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誕生日 | 正平13年/延文3年(1358年) 8月22日 |
没日 | 応永15年(1408年)5月6日 |
生地 | 伊勢貞継入道照禅の屋敷 (現・京都市) |
没地 | 鹿苑寺(金閣寺)(現・京都市) |
配偶者 | 正室・日野業子、継室・日野康子 |
埋葬場所 | 相国寺塔頭鹿苑院(現在は消失) |
足利義満の生涯をハイライト
- 1358年 足利義満誕生
- 1369年 将軍となる 幕政は管領・細川頼之などが対応
- 1378年 邸宅を花の御所に移す
- 1379年 「康暦の政変」で細川頼之が失脚
- 1383年 武家として初めて源氏長者となる
- 1389年 「土岐康行の乱」で土岐氏を討伐
- 1391年 「明徳の乱」で山名氏を征伐
- 1392年「明徳の和約」で南北朝の争いを終わらせる
- 1395年 太政大臣となる 自身は隠居
- 1397年 鹿苑寺(金閣寺)を建立
- 1399年 「応永の乱」で大友氏を討伐
- 1401年 勘合貿易を始める
- 1408年 死去
聞き慣れない単語がたくさんあると思いますが、後ほど詳しく解説していきます。
10歳で征夷大将軍に就任し、室町幕府の隆盛を築く
義満が征夷大将軍の宣下を受けて、3代将軍に就任したのは1369年。義満はまだ10歳で政務は管領・細川頼之等が担います。室町幕府は足利氏の基盤が弱く、争いも頻発していました。
1379年には幕府直属の常備軍「奉公衆」、実務官僚の「奉行衆」を整備。武力を背景に幕府の驚異になる大名を次々と駆逐し、1399年には義満に対抗できる勢力はいなくなります。更に「明徳の和約」で南北朝時代に起きた朝廷の分裂を収束させました。
義満は武家だけでなく、公家や仏教の世界にも積極的に介入します。義満は仏教で「臨済宗」を推す事を公言し、臨済宗のお寺の格付けを実施。足利氏に所縁のあるお寺を上位に位置づけ、宗教権威と足利氏の同一化を図りました。
更に義満は1378年に右近衛大将という役職に任ぜられ、公家社会にも積極的に介入。義満は武力や宗教権威をバックに昇進を重ね、1394年には朝廷の長である太政大臣に就任します。武士で太政大臣に就任するのは平清盛以来230年ぶりです。
義満は1400年頃には武士・朝廷・宗教のトップに君臨。ここまで権力を集約させたのは日本史上、義満だけでしょう。
金閣寺を建立し、北山文化を発展させる
義満は1399年に金閣寺を建立します。金閣寺とその一帯は当初は北山殿、金閣寺は舎利殿と呼ばれていました。義満の死後、舎利殿は鹿苑寺という禅宗寺院に変わります。色んな名称がありますが、現在は金閣寺という呼び方が一般的です。
1394年に義満は息子(義持)に将軍職を譲るものの、この地で政治の実権を掌握。舎利殿は豪華絢爛で金箔が塗られ、建設には600億円の費用がかかりました。北山殿(金閣寺)は武家社会と公家社会、中国等の大陸文化を融合させたものでした。
北山文化では臨済宗が発展し、相国寺や安国寺等のお寺が栄えます。更に相国寺の僧侶・如拙や周文らが「禅の世界を表現する水墨画」を大成させました。中国の文化も研究され、漢詩文の創作も行われています。
能楽もこの頃に発展しますが、これも義満が能楽のパトロンになっていたからです。この時代に花開いた文化は総じて義満が庇護や支持したものでした。北山文化には義満の意向が色濃く反映されています。
勘合貿易を行い、自らを「日本国王」と名乗る
義満は1404年から明(中国大陸の歴代王朝)と貿易を始めます。貿易は「幕府が正式な船である事」を証明する為の勘合(証紙)が使われた為、勘合貿易とも呼ばれます。授業では勘合貿易と習いますが、日明貿易と呼ぶのが正しいとされます。
日明貿易を経て日本は明の上質な生糸や織物、書物などを入手。明のお金である永楽通宝も国内に流通し、江戸時代初期まで日本の貨幣の役割を担いました。義満が明と貿易を行ったのは、義満が幼い頃から明に強い憧れを抱いていたからです。
日明貿易は「明の皇帝に周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は返礼品をもたせて帰国させる」という朝貢という形式で行われます。日本は「天皇が中国の傘下になる事」を拒否し、848年の遣唐使の廃止以降、正式な貿易は行われていません。
義満は1374年の頃から明との正式な通交を望んでいましたが、交渉は失敗。義満の努力が身を結ぶのは1401年に明に使者を遣わした時でした。義満は貿易の際に自らを「日本国王」と名乗っています。
国王と名乗った理由は諸説あります。当時の義満は出家し、天皇の臣下ではありませんでした。天皇が明の傘下になるのではなく、義満が国王として傘下になる事で、天皇の格を落とさないようにしたとも言われていますね。
野心家で破天荒な性格だった
今までの解説を読んで分かる通り、義満は絶大な権威を持っていました。日本において武家、朝廷、仏教の分野でトップに君臨したのは義満だけです。義満が頭脳明晰な策謀家だった事は明白ですが、それ以上に野心家だった事は間違いないでしょう。
金閣寺にも彼の性格が現れています。金閣寺は3階建てで、各階は異なる建築様式が用いられました。1階は公家の邸宅をイメージした寝殿造り、2階は武家様式、3階は明の禅宗様式を採用しています。更に1階は金箔の装飾はありません。
義満は明の皇帝を慕い、日明貿易の中で自分を日本国王と評しました。金閣寺には公家<武士<自分(と中国)という序列が再現されており、義満の野心と権威欲が凝縮されているのです。
更に義満の権威にあやかろうと、有力者が正妻や妾を差し出しています。義満の女性関係は幅広く、当時の天皇・後円融天皇の正妻とも密通する等、破天荒な事もしています。これも権力者が成せる事なのかもしれません。