「承久の乱はどういう経緯で起きたの?」
「承久の乱で何が変わったの?」
承久の乱は後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権「北条義時」を討伐する為に行った兵乱です。乱は鎌倉幕府の圧勝に終わり、後鳥羽上皇は島流しとなり、以降600年にわたり武士が政権を担い続ける契機となりました。
そんな日本史の超重要事件である承久の乱ですが、詳細はもちろん前後の流れがあいまいな人も多いでしょう。
そこで、今回は承久の乱が起きた原因からその後の影響までを年表形式でわかりやすく解説します。承久の乱は、2022年の大河ドラマ・鎌倉殿の13人の最後にして最大のヤマ場となる事件です。この記事を読めば、承久の乱の流れを詳細まで理解できますよ。
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Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。
承久の乱とは
承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の二代目執権・北条義時に起こした兵乱です。争い自体は鎌倉幕府の圧勝に終わりました。乱が勃発したのは1221年であり、鎌倉幕府発足から約30年後。東日本で勢力を誇った鎌倉幕府ですが、西日本では朝廷の影響力は強いままでした。
1219年に3代目将軍・源実朝が死去すると、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の皇子・雅成親王を新たな将軍に擁立するよう後鳥羽上皇に要請。ところが後鳥羽上皇は朝廷の権力の確保を狙い、皇子の将軍就任に対して様々な条件をつけた為、交渉は決裂するのです。
幕府と朝廷の対立は決定的となり、後鳥羽上皇は1221年5月15日に「北条義時追討」の宣旨(天皇の命令)を全国に飛ばし挙兵を開始。義時に従う御家人は狼狽しますが、源頼朝の妻・北条政子が「幕府と御家人を繋ぎ止める演説」を行い、彼らは一致団結しました。
結果的に承久の乱は鎌倉幕府の圧勝に終わり、7月に後鳥羽上皇は隠岐島に島流しとなります。後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され、朝廷の監視を行う六波羅探題も京に設置。朝廷と幕府の力関係は完全に逆転するのです。
承久の乱は武家政権の確立と、朝廷の権威の喪失を決定つける出来事でした。
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承久の乱が起きた3つの原因
歴史的なターニングポイントになった承久の乱ですが、起きた原因は大きく分けて次の3つです。
- 鎌倉幕府と朝廷が対立していたから
- 朝廷内で後鳥羽上皇が台頭したから
- 源実朝が暗殺されたから
順を追って解説していきますね。
1.鎌倉幕府と朝廷の対立
治承・寿永の乱を経て源頼朝は鎌倉を拠点に鎌倉幕府を発足させます。東国では軍事指揮官たる守護と、荘園を管理支配する地頭が設置されます。しかし西日本では京を中心に朝廷の影響が強く、鎌倉時代初期の日本は幕府と朝廷の二元政治の状態が続きました。
地頭は各地で税を徴収し、税を荘園主に納めるのが仕事です。地頭は税のいくらかを自分達が受け取り、一族の生活を支えていました。幕府は朝廷が保有する荘園にも地頭を設置しますが、地頭達は儲けを増やす為「荘園領主に納める税金」を減らしていくのです。
朝廷や貴族達は地頭の任命権を持つ鎌倉幕府に抗議するものの、事態はほとんど改善されません。この状況に彼らは不満を募らせていくのです。
2.後鳥羽上皇の台頭
鎌倉時代初期に朝廷で権力を持っていたのは後鳥羽上皇です。彼は優れた歌人でありつつ、武芸に優た異色の天皇でした。1198年に皇位を土御門天皇に譲位して以降、順徳天皇、仲恭天皇と1221年まで権力を握り、公事の再興・故実の整備に取り組んでいます。
とはいえ後鳥羽上皇も当初は鎌倉幕府と徹底的に対立するつもりはありませんでした。1203年に源頼朝の次男・源千幡が3代目の将軍に就任した時に「実朝」の名を定めたのは後鳥羽上皇でした。
源実朝は和歌にも通じ、公家的な素養を養っていたのです。実朝が将軍職にある間、幕府と朝廷は比較的良好な関係を築いていました。また後鳥羽上皇が即位したのは治承・寿永の乱の真っ最中の1184年の事です。
ちなみに天皇に即位する為には「三種の神器」が必要です。ただ治承・寿永の乱の最中に神器の一つ・宝剣は紛失しており、後鳥羽上皇は一種のコンプレックスを抱えていました。それを払拭する為に後鳥羽上皇は「強硬的な政治姿勢」を貫いたという説もあります。
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3.源実朝暗殺による次期将軍争い
朝廷と幕府の仲が本格的に悪くなるのは1219年1月。源実朝が甥の公暁に暗殺された事がきっかけでした。源実朝暗殺は実朝が朝廷と融和的な立場をとる事を懸念した北条一族が黒幕という説もあります。実朝の死により、朝廷と幕府の関係性は崩れていくのでした。
源実朝には実子がおらず、幕府は幕府の権威を高める為、後鳥羽上皇の皇子・雅成親王を次期将軍に擁立する事を後鳥羽上皇に提案。しかし後鳥羽上皇は自らの荘園の地頭職の撤廃を将軍擁立の条件に加える等して、幕府に強硬路線を取るのでした。
後鳥羽上皇は「摂関家の子弟なら将軍でも可」と提案し、4代目の将軍には九条道家の子・三寅が就任するものの、幕府と朝廷のしこりは残りました。同年7月には内裏守護の源頼茂が後鳥羽上皇が指揮する在京の武士に殺害される事件も起きています。
後鳥羽上皇は順徳上皇と結託して二代目執権・北条義時の追討計画を画策。多くの公家が反対する中で、承久の乱は勃発したのです。
承久の乱がもたらした3つの影響
承久の乱は北条義時率いる鎌倉幕府の圧勝に終わります。この乱がその後の日本史に与えた影響は以下の3つです。
- 後鳥羽上皇は島流しになる
- 鎌倉幕府における北条政権が確立
- 京に六波羅探題や地頭が設置される
後鳥羽上皇は島流しになる
乱が終結した7月には、首謀者の後鳥羽上皇が隠岐島に、順徳上皇が佐渡島に島流しとなりました。更に後鳥羽上皇の皇子達も但馬国などに島流しとなります。ちなみに事件に全く関与せず、処罰の対象外だった土御門上皇は自ら望んで阿波国に島流しとなります。
当時は後鳥羽上皇の孫であり、順徳天皇の皇子だった仲恭天皇がわずか4歳で即位していました。鎌倉幕府は仲恭天皇の皇位を廃し、安徳天皇の異母弟の後高倉院の皇子を新たな天皇として擁立されています。
保元の乱の崇徳上皇など、過去に流罪になった天皇や上皇はいたものの、朝廷内での争いに伴うものでした。承久の乱は一介の武士の集団に過ぎない北条氏が朝廷で圧倒的な権威を持つ後鳥羽上皇を流罪にしたという意味が特筆すべき点です。
承久の乱を経て朝廷と幕府の力関係は関係に逆転。乱の火種になった皇位継承についても幕府は監視するようになります。承久の乱は幕府と朝廷の二元政治の終わりを意味し、明治維新に至る600年の間、武家政権が君臨する契機となったのです。