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保元の乱をわかりやすく解説!場所や覚え方、平治の乱との違いも紹介

「保元の乱(ほうげんのらん)」は、天皇の後継者争いや摂関家の内紛が原因で起きた平安時代末期の政変です。争いに武士の兵力が駆り出されたことで、武士の存在感が増すきっかけにもなりました。保元の乱は700年に渡る武家政権の伏線になったのです。

『保元・平治の乱合戦図屏風』
出典:Wikipedia

保元の乱自体は3時間ほどで終結した争いだったため、ドラマチックな要素はありません。しかし、保元の乱に関与したのは、個性豊かな人物ばかり。「保元の乱を経て彼らがどのような道を辿ったのか」という部分こそ学ぶべき部分です。

そこで今回の記事では、保元の乱の原因や経過はもちろん、同時期に起きた「平治の乱(へいじのらん)」の違いも解説します。この記事を通じ、保元の乱について興味を持っていただけたら幸いです。

保元の乱とは

保元の乱の相関図
出典:保元・平治の乱と貴族政治の終焉

保元の乱は保元元年(1156年)7月11日に京都で起きた政変です。この日、後白河天皇と関白・藤原忠通の陣営と、崇徳上皇と藤原長者・藤原頼長の陣営による衝突が起こりました。

ただ「保元の乱」で実際に戦ったのは朝廷や藤原家ではなく、双方の陣営に入った武士達です。保元の乱を経て「朝廷や藤原家は、武士の力なしではお家騒動すら解決出来ない事」が露呈。武士の存在感が増すきっかけになりました。

保元の乱が起きた原因

保元の乱が起きた原因は「朝廷と藤原家による長年の内部抗争」が根底にありました。とはいえ、「内部抗争」と言われてもイメージが湧きづらいですよね。

実際にどんな抗争が内部で繰り広げられていたのか、詳しく見ていきましょう。

朝廷内の対立

鳥羽法皇
出典:Wikipedia

平安末期は幼い天皇の代わりに、天皇を退位した上皇(出家すれば法皇)が政治の実権を握る「院政」が行われていました。保元の乱が起こる前、院政を敷いていたのは「鳥羽法皇(とばほうおう)」です。

鳥羽法皇は保元の乱の直前に崩御。保元の乱とは鳥羽法皇の代わりに「誰が朝廷の実権を握るのか」を決める為に勃発したものでした。

鳥羽法皇と崇徳天皇の対立

平安京の復元模型
出典:Wikipedia

鳥羽法皇には崇徳(すとく)天皇(第一皇子)、近衛(このえ)天皇(第九皇子)、後白河(ごしらかわ)天皇(第四皇子)の三代にわたり院政を敷きます。鳥羽法皇は崇徳天皇と仲が悪く、後に彼が院政を敷くようになる事に反対していました。

院政を敷く条件は「天皇の親である事(養子でも可)」です。崇徳上皇と近衛天皇は兄弟なので、鳥羽法皇が崩御しても院政は出来ません。そのため崇徳上皇はずっと自分の皇子が天皇になる時を待っていました。

近衛天皇の死

1155年に近衛天皇は後継を残さぬまま崩御。血縁的には崇徳上皇の皇子である重仁親王が最有力候補になります。しかし崇徳上皇に院政をさせたくない鳥羽法皇は、皇位争いとは無縁の雅仁親王(後白河天皇)を即位させます。

崇徳上皇にとって後白河天皇は弟の為、院政をする立場にはありません。つまり崇徳上皇が院政をする為には「後白河天皇を退位させ、自分の皇子である重仁親王を即位させる」必要がありました。

やがて鳥羽法皇は1156年7月2日に崩御。崇徳上皇と後白河天皇によるお家騒動である保元の乱は、僅か10日後の7月11日に勃発したのです。

藤原摂関家の対立

藤原北家の家紋
出典:Wikipedia

朝廷が勢力争いで揉める頃、藤原摂関家もお家騒動が起きています。かつては摂関政治で栄華を極めた藤原家ですが、院政が確立するにつれて勢力は衰退。復権を画策していました。

当時の藤原摂関家の当主は藤原忠通(ふじわらのただみち)ですが、彼は後継に恵まれません。1125年に忠通は異母弟の頼長(よりなが)を養子に迎えました。

ちなみに忠通と頼長の年齢差は23歳。彼らの父親である忠実(ただざね)は頼長の事が可愛くて仕方がなく、何かと頼長に味方をしていました。

藤原忠通(兄)と藤原頼長(弟)の対立

長らく男子に恵まれなかった忠通ですが、40歳を過ぎた頃(1140年頃)から次々と男子に恵まれます。忠通は頼長を疎ましく思い、頼長との縁組を破棄。ここにきて「忠通vs頼長・忠実」という藤原摂関家の争いが起きたのです。

※実際のところ3人の争いはもっと複雑です。ちなみに藤原頼長は「悪左府(あくさふ)」と呼ばれる程に苛烈で他人に厳しい性格でした。また自身の男色体験を赤裸々に綴った「台記(たいき)」を遺しており、非常に面白い人物でもあります。

保元の乱で抑えておきたい3つのポイント

保元の乱はその後の歴史に大きな影響を与えました。保元の乱で抑えておきたいポイントについて解説していきます。

勝者は後白河天皇

平清盛」で後白河天皇を演じる松田翔太
出典:松田翔太と後白河天皇

保元の乱の勝者は後白河天皇でした。後白河天皇の側近には「信西(しんぜい)」という僧侶がいて、彼が一連の乱に至る挑発や天皇の勅命などの指示を出していたとされます。

保元の乱が始まった時点で崇徳上皇に味方した勢力は少なく、乱が始まる前から勝敗は決していました。保元の乱を経て、崇徳上皇側についた武将達は死罪や流罪、逃走と散々な目にあっています。

また後白河天皇は僅か3年で退位。後の天皇は後白河天皇の皇子である守仁(二条天皇)や順仁(六条天皇)が即位して院政体制を敷きます。これ以降は後白河天皇の血筋が皇位を継承する流れが続くのです。

武士が台頭するきっかけになる

平安時代の武士
出典:Wikipedia

保元の乱は後白河天皇と崇徳上皇のお家騒動が発端であり、そこに藤原摂関家のお家騒動が結びついたものです。ただ彼らは武力を持ち合わせておらず、実際に戦ったのは武士達でした。

朝廷の争いも藤原摂関家の争いも、何年も前からくすぶっていたものです。しかし保元の乱はわずか3時間ほどで決着。長年の対立も武力を用いれば「強い者が勝つ」という単純な構図になる事が分かったのです。

保元の乱が勃発するまで、武士は朝廷や貴族の護衛をする立場でしかありませんでした。朝廷や貴族達は武士を冷遇し、武士達もそれに甘んじていたのです。

保元の乱を経て、武士達の存在感は増しました。1159年に武力衝突である平治の乱が勃発。更に1160年には平清盛による初の武家政権が誕生します。そして1189年には源頼朝による鎌倉幕府が成立。700年にわたる武家政権が誕生するのです。

崇徳上皇は怨霊となる

讃岐に流された崇徳上皇
出典:Wikipedia

崇徳上皇は保元の乱に敗れ、讃岐(現・香川県)に流罪となります。「保元物語」によると崇徳上皇は讃岐の地で写経を書き、それを朝廷に送ります。しかし後白河上皇は「呪いが込められているのではないか」と疑い、写経を送り返したのです。

これに激しく怒った崇徳上皇は舌を噛みきり、写経に自らの血でこのように書き残しました。

日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん
この経を魔道に回向(えこう)す

崇徳上皇は爪や髪を切らずに夜叉のような姿になり、生きたまま天狗になったともされます。崇徳上皇は1164年に崩御するものの、やがて社会は不安定となり、1189年には源頼朝が武家政権を立ち上げるなど、社会は大きく変化しました。

当時の人々はこの動乱を「崇徳上皇の呪いによるもの」と恐れたのです。やがて崇徳上皇は菅原道真や平将門と並ぶ日本三大怨霊に数えられるのうになりました。崇徳上皇の呪いは明治政府が発足する1868年まで続いたのです。

保元の乱の経過

保元の乱の前夜

『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使
出典:Wikipedia

保元の乱が勃発するのは7月11日ですが、後白河天皇陣営と崇徳上皇陣営の水面下での争いが顕在化するのは、鳥羽法皇が崩御した7月2日からです。この10日の経過も見ていきましょう。

追い詰められる藤原頼長

7月5日頃から京都では「崇徳上皇と藤原頼長が国家を傾けようとしている」と噂が流れます。後白河天皇側はこの噂を利用。7月6日に頼長の側近を検非違使に逮捕されています。

7月8日に後白河天皇の綸旨(命令文書)が出され「藤原忠実・頼長親子から軍兵として駆り出されても、これに応じない事」と京に命令が下ります。

同日に東三条邸という藤原摂関家の氏長者の邸宅が襲撃。当時の藤原摂関家の氏長者は藤原頼長であり、頼長はこの時点で兵力も財産も没収された事になります。

崇徳上皇の脱出

7月9日夜中、身の危険を感じた崇徳上皇は鳥羽田中殿を脱出。そのまま白河北殿に避難します。頼長のように直接的に攻撃される事はなかったもの、このまま鳥羽田中殿に留まっていれば拘束される可能性がありました。

やがて10日の明け方に藤原頼長が白河北殿に入ります。謀反人扱いされ、追い詰められた頼長は挙兵してこの局面を打開するしかありません。そして挙兵の正当性を主張する為に崇徳上皇を担いだのでした。

ちなみに2人が挙兵に至った「崇徳上皇と藤原頼長が国家を傾けようとしている」という噂ですが、この噂を流したのは後白河天皇の側近・信西という説があります。崇徳上皇も頼長もそれらしい行動をしておらず、初めから彼らを追い詰めるつもりでした。

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