「保元の乱(ほうげんのらん)」は、天皇の後継者争いや摂関家の内紛が原因で起きた平安時代末期の政変です。争いに武士の兵力が駆り出されたことで、武士の存在感が増すきっかけにもなりました。保元の乱は700年に渡る武家政権の伏線になったのです。
保元の乱自体は3時間ほどで終結した争いだったため、ドラマチックな要素はありません。しかし、保元の乱に関与したのは、個性豊かな人物ばかり。「保元の乱を経て彼らがどのような道を辿ったのか」という部分こそ学ぶべき部分です。
そこで今回の記事では、保元の乱の原因や経過はもちろん、同時期に起きた「平治の乱(へいじのらん)」の違いも解説します。この記事を通じ、保元の乱について興味を持っていただけたら幸いです。
この記事を書いた人
Webライター
Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。
保元の乱とは
保元の乱は保元元年(1156年)7月11日に京都で起きた政変です。この日、後白河天皇と関白・藤原忠通の陣営と、崇徳上皇と藤原長者・藤原頼長の陣営による衝突が起こりました。
ただ「保元の乱」で実際に戦ったのは朝廷や藤原家ではなく、双方の陣営に入った武士達です。保元の乱を経て「朝廷や藤原家は、武士の力なしではお家騒動すら解決出来ない事」が露呈。武士の存在感が増すきっかけになりました。
保元の乱が起きた原因
保元の乱が起きた原因は「朝廷と藤原家による長年の内部抗争」が根底にありました。とはいえ、「内部抗争」と言われてもイメージが湧きづらいですよね。
実際にどんな抗争が内部で繰り広げられていたのか、詳しく見ていきましょう。
朝廷内の対立
平安末期は幼い天皇の代わりに、天皇を退位した上皇(出家すれば法皇)が政治の実権を握る「院政」が行われていました。保元の乱が起こる前、院政を敷いていたのは「鳥羽法皇(とばほうおう)」です。
鳥羽法皇は保元の乱の直前に崩御。保元の乱とは鳥羽法皇の代わりに「誰が朝廷の実権を握るのか」を決める為に勃発したものでした。
鳥羽法皇と崇徳天皇の対立
鳥羽法皇には崇徳(すとく)天皇(第一皇子)、近衛(このえ)天皇(第九皇子)、後白河(ごしらかわ)天皇(第四皇子)の三代にわたり院政を敷きます。鳥羽法皇は崇徳天皇と仲が悪く、後に彼が院政を敷くようになる事に反対していました。
院政を敷く条件は「天皇の親である事(養子でも可)」です。崇徳上皇と近衛天皇は兄弟なので、鳥羽法皇が崩御しても院政は出来ません。そのため崇徳上皇はずっと自分の皇子が天皇になる時を待っていました。
近衛天皇の死
1155年に近衛天皇は後継を残さぬまま崩御。血縁的には崇徳上皇の皇子である重仁親王が最有力候補になります。しかし崇徳上皇に院政をさせたくない鳥羽法皇は、皇位争いとは無縁の雅仁親王(後白河天皇)を即位させます。
崇徳上皇にとって後白河天皇は弟の為、院政をする立場にはありません。つまり崇徳上皇が院政をする為には「後白河天皇を退位させ、自分の皇子である重仁親王を即位させる」必要がありました。
やがて鳥羽法皇は1156年7月2日に崩御。崇徳上皇と後白河天皇によるお家騒動である保元の乱は、僅か10日後の7月11日に勃発したのです。
藤原摂関家の対立
朝廷が勢力争いで揉める頃、藤原摂関家もお家騒動が起きています。かつては摂関政治で栄華を極めた藤原家ですが、院政が確立するにつれて勢力は衰退。復権を画策していました。
当時の藤原摂関家の当主は藤原忠通(ふじわらのただみち)ですが、彼は後継に恵まれません。1125年に忠通は異母弟の頼長(よりなが)を養子に迎えました。
ちなみに忠通と頼長の年齢差は23歳。彼らの父親である忠実(ただざね)は頼長の事が可愛くて仕方がなく、何かと頼長に味方をしていました。
藤原忠通(兄)と藤原頼長(弟)の対立
長らく男子に恵まれなかった忠通ですが、40歳を過ぎた頃(1140年頃)から次々と男子に恵まれます。忠通は頼長を疎ましく思い、頼長との縁組を破棄。ここにきて「忠通vs頼長・忠実」という藤原摂関家の争いが起きたのです。
※実際のところ3人の争いはもっと複雑です。ちなみに藤原頼長は「悪左府(あくさふ)」と呼ばれる程に苛烈で他人に厳しい性格でした。また自身の男色体験を赤裸々に綴った「台記(たいき)」を遺しており、非常に面白い人物でもあります。