源頼朝に兄弟は何人いた?妹も含め家系図付きで一覧紹介

「源頼朝の弟といえば義経が有名だけど、他にもいたの?」
「妹や兄がいたって本当?」
「何か功績を残したの?」

鎌倉幕府を開いた武将、源頼朝。弟としては源義経が有名ですよね。

しかし、実のところ頼朝には義経を含め6人の弟がいました。加えて、1人の妹と2人の兄もいたのです。ただ、学校の授業ではめったに取り上げられないため、義経以外の肉親を詳しく知らない人も多いでしょう。

そこで、今回は源頼朝にいた6人の弟を、妹や兄の存在も交えて紹介します。この記事を読めば、頼朝にいた肉親の詳細はもちろん、彼らが歴史に与えた影響を理解できます。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

源頼朝には9人の弟・妹・兄がいた

源頼朝の兄弟(黄色が正室の子)
出典:源頼朝の兄弟たち

源頼朝の兄弟として名前や素性が判明しているのは9人。源頼朝は河内源氏の6代目棟梁とされる源義朝の三男にあたり、その下に弟や妹が7人いた事が分かります。たくさん兄弟がいますが、これは源義朝が東国に勢力を伸ばす為、各地で子どもを儲けた為です。

源頼朝は三男とはいえ、正妻・由良御前の1人目の子供であり、嫡男として扱われます。弟の中で最も有名な源義経の母親は側室である常磐御前です。源頼朝の兄弟を学ぶ上で母親の身分の違いは割と重要で、「生まれた順番=序列」ではないのです。

弟が6人

源頼朝像(足利尊氏の弟の足利直義説あり)
出典:Wikipedia

源頼朝の弟は6人いると伝わっています。

  • 源義門(みなもとのよしかど)
  • 源希義(季義)(みなもとのまれよし)
  • 源範頼(みなもとののりより)
  • 阿野全成(あべのぜんじょう/ぜんせい)
  • 源義円(みなもとのぎえん)
  • 源義経(みなもとのよしつね)

彼らの運命が大きく変わるのが1159年に勃発した平治の乱です。父・源義朝は藤原信頼と平治の乱を起こすものの、平清盛に敗北して戦死。乱に出陣していた源頼朝が伊豆に流罪となったのは有名ですが、弟たちもまた流罪や寺に預けられるなどの憂き目に遭います。

やがて源頼朝が打倒平家を掲げて伊豆で挙兵した時、弟たちの多くはそれに呼応。各地で反乱の狼煙を上げました。ただそれは新たな戦いの始まりであり、多くの弟たちは治承・寿永の乱や源頼朝と対立して亡くなります。

源義経の母親・常盤御前
出典:Wikipedia

ちなみに源頼朝の同母弟は源義門(諸説あり)、源希義がいました。側室・常盤御前を母とした異母弟は阿野全成、源義円、源義経がおり、母親の素性がよく分からないのが源範頼です。彼らの足跡については後に詳しく解説しますね。

妹が1人

明治時代に描かれた坊門姫(左)
出典:Wikipedia

源頼朝の妹として存在が確実視されているのは1人です。

  • 坊門姫(ぼうもんひめ)

当時の女性の名前はほとんどが記録されていないので、彼女の本当の名前は分かりません。坊門姫は源頼朝と同じく由良御前を母親とし、源頼朝の同母妹に当たります。平治の乱を経て後藤実基という武将に育てられ、後に貴族の一条能保の妻となりました。

この縁戚関係をもとに源頼朝は鎌倉の地にいながら、後白河法皇などの朝廷勢力とパイプを持つに至ります。源頼朝の強力な味方ではあったものの、1190年に難産の末に死去。46歳の高齢出産であり、源頼朝はその死を嘆きました。

坊門姫は多くの資料で源頼朝の「妹」とされていますが、吾妻鏡では享年46歳と書かれています。逆算すると1145年生まれとなり、1147年生まれの源頼朝の姉になります。更に平治物語では「1159年時点で6歳」という記述があり、正直よく分かりません。

46歳の出産は現在でもかなりの高齢なので、案外平治物語の記載が正しいのかもしれません。ちなみに源氏の将軍が3代で絶えた時、4代目の将軍として迎えられたのは藤原頼経という人物でら坊門姫の孫にあたりました。一応彼と源頼朝は血縁関係ではあったのです。

兄が2人

月岡芳年による源義平
出典:Wikipedia

一応記載しておくと、源頼朝には2人の兄がいました。

  • 源義平(みなもとのよしひら)
  • 源朝長(みなもとのともなが)

源義平の母親は三浦義明の娘(または京都の遊女)、源朝長の母親は波多野義通の妹とされます。源義平は源頼朝の6歳上、源朝長は4歳上ですが正妻の息子ではない為、嫡男ではありません。2人の母親は地方で影響力を持っていた武将の身内になりますね。

源義平と源朝長、源頼朝は平治の乱に出陣して敗北。源朝長は落ち延びる途中で死去し、源頼朝も一行から逸れる中で、源義平は父親である源義朝の死を知ります。彼は京に戻って平清盛の暗殺を画策したものの、後に捕らえられて斬首されました。

2人の動向は今回は詳しく掘り下げませんが、源義平こ勇猛果敢な戦いぶりは「平治物語」で語られています。どこまで真実かは分かりませんが、若くして亡くなった事への弔いの意味があるのかもしれません。

源頼朝の弟たちの軌跡

続いて源頼朝の弟たちの足跡を詳しく解説していきます。ちなみに源頼朝は源義朝の三男に当たり、生まれたのは1147年です。頼朝と義経の関係については当サイトでも詳しく解説しているので、そちらも参考にしていただければ幸いです。

源頼朝と義経の関係性を家系図付きで解説!出会いや討たれた理由も紹介

源義門(生没年不明)

謎多き源義門
出典:Wikipedia

源義朝の四男であり、母親は源頼朝と同じく由良御前とされますが、それを決定づける資料はありません。若くして亡くなったと伝わるだけで、生没年や事績は不明です。

ただ平治の乱の前に「宮内丞に任官した」という記録は残っており、1159年までは存命だった事は間違いありません。平治の乱で源頼朝達が流罪になった時に、彼についての記録だけは残っていないので、この時に戦死したという説もあります。

源希義(1152年~1180年または1182年)

伝源希義墓塔
出典:Wikipedia

源希義は源義朝の五男であり、母親は由良御前です。平治の乱には参加せず、乱を経て土佐国に流罪になりました。1180年に兄の源頼朝が挙兵した時、平家は源希義が協力する事を警戒。源希義討伐の追悼令を出し、吾川郡の年越山という場所で殺害されました。

死亡時期は文献により異なり、正確な日付は分かりません。大体の資料が1180年を主張していますが、吾妻鏡だけは1182年です。同母兄の源頼朝はその死を悲しみ、皆希義を討伐した蓮池家綱・平田俊遠らを後に殲滅。没地に供養の為の西養寺を建立しました。

源範頼(1150年~1193年)

源範頼像
出典:Wikipedia

源義朝の六男で母親は遠江国池田宿の遊女とされますが、この地の有力者の娘だった可能性があります。平治の乱で源義朝が戦死した際には、平家から存在を認知されておらず、出生地の遠江国で匿われました。

1183年頃から源頼朝の下につき、一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いなどに大軍を率いて参加。源義経と共に各地で成果を上げています。独断の目立つ源義経と異なり、源範頼は源頼朝にマメに報告を鎌倉に送ります。勤勉な態度から源頼朝からも信頼されていました。

鎌倉幕府創設後も彼は生き延び、幕府内の重鎮として重きをなします。ただ1193年に源頼朝が暗殺されたと誤報が入り、北条政子が悲しみに暮れていた時に「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた事で、源頼朝に謀反の疑いをかけられてしまうのです。

源範頼は幽閉され、後に誅殺されたと言われます。ただ幽閉先で誅殺されず、落ち延びたという伝説もあり詳しくは不明。謀反の疑いが源頼朝と北条政子の陰謀という説もあります。ちなみに息子達は処分を免れ、子孫は吉見氏としてその後も続きました。

阿野全成(1153年~1203年)

武家百人一首に描かれた阿野全成
出典:Wikipedia

源義朝の七男で、母親は常盤御前です。平治の乱を経て醍醐寺で出家するものの、1180年以仁王の令旨が出されると寺を脱走。平家との戦いに身を投じます。10月1日に源頼朝と対面し、両者は涙を流して再会を喜びました。

源頼朝の全幅の信頼を得た阿野全成は北条政子の妹・阿野局と結婚します。しかし吾妻鏡で彼の記録は途絶え、治承・寿永の乱や鎌倉幕府初期に何をしていたのかは不明。鎌倉幕府の有力御家人として将軍家に仕えていた事は間違いありません。

1199年に甥の源頼家が将軍となりますが、北条時政や北条義時と対立が勃発。阿野全成は北条側の人間としての立場をとりました。1203年に源頼家の命令で大倉御所に幽閉され、程なく暗殺されます。

兄弟唯一の生き残りではあったものの、後の北条家の暗躍をみれば、後に彼も殺害された可能性は高いです。彼の子孫は南北朝時代まで確認出来ますが、それほど大きな勢力になる事はありませんでした。

源義円(1155年~1181年)

源義円供養塔
出典:Wikipedia

源義朝の八男で母親は常盤御前です。平治の乱を経て園城寺にて出家するものの、源頼朝の挙兵に呼応。1181年に叔父・源行家が挙兵した時に源頼朝の命令で援軍として参加します。この時の戦いは墨俣川の戦いと呼ばれます。

源義円は夜襲を仕掛けるものの失敗。平家の家人・高橋盛綱と交戦の末に敗北して討ち取られました。墨俣川の戦いは源氏側の大敗北に近く、ある意味で源義円はとばっちりを受けた形になったのです。

源義経(1159年~1189年)

源頼朝像
出典:Wikipedia

源義朝の九男で母親は常盤御前。源頼朝の末弟にあたります。治承・寿永の乱で大活躍した事は有名でしょう。戦いのプロだった事は間違いないものの、源頼朝の許可なく後白河法皇から官位を受けたり、独断専行の目立つ行動から源頼朝と対立します。

東北で勢力を伸ばす藤原秀郷に匿われるものの、彼は病没。源頼朝は藤原秀郷の息子・藤原泰衡に圧力をかけて源義経を討ち取らせました。その最期は多くの人達の同情を引き、様々な伝説や物語を生み出す事になったのです。

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源頼朝の弟に関するまとめ

今回は、源頼朝にいた6人の弟を妹や兄の存在も交えて解説しました。妹や兄を含め、源頼朝には個性豊かな兄弟がいた事がお分かりいただけたでしょうか。打倒平家の為に立ち上がった弟達でしたが、戦いや対立の中で、最期には皆いなくなります。

源氏は身内同士で対立する事が多かったのは事実です。平和な時代であれば、彼らも協力しながら一族の繁栄に寄与する事が出来たのかもしれませんし、彼らの仲がもう少し良ければ源氏がすぐに絶える事もなかったのかもしれません。

今回の記事を通じて源頼朝の弟たちに興味を持っていただけたら幸いです。

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