「なぜソ連は崩壊したの?」
「ソ連の崩壊はその後の世界にどのような影響を与えたの?」
1991年12月に社会主義国であるソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が崩壊し、世界情勢は新たな局面を迎えました。現在のウクライナ情勢にも影響を与えているソ連の崩壊ですが、いつどういった原因でなくなったのか曖昧な人も多くいますよね。
そこで、今回はなぜソ連は崩壊したのか、その原因や経緯をわかりやすく解説します。また、ソ連の崩壊が世界に与えた影響も解説するので、ぜひ参考にしてください。
この記事を書いた人
Webライター
Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。
ソ連が崩壊したのは1991年12月
1991年12月26日、ソビエト社会主義共和国連邦のゴルバチョフ大統領の辞任を機に、約70年続いたソ連は解体され事実上崩壊したのです。それは寒い冬の日の出来事であり、歴史に残る1日でした。
世界初の社会主義国として、ソ連の前身であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が建国されたのは1917年の事。ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国は、広大なロシア共和国を中心とし、その他のソビエト連邦構成共和国で構成された連邦国家でした。
ソ連の崩壊は、社会主義国の特色である「統制経済」が実現不可能であった事を証明づける事になったのです。なぜソ連が崩壊したのか、そして崩壊した事で、社会はどのように変わったのかを解説していきますね。
ソ連が崩壊した3つの原因
ソ連が崩壊した主な原因は、次の3つです。
- ゴルバチョフによるペレストロイカ政策
- 民族紛争の激化
- ソ連の経済モデルの崩壊
順番に解説していきますね。
原因①:ゴルバチョフがペレストロイカ政策を進めたから
ソ連で60年にわたり独裁体制を敷いていたのは、ソビエト連邦共産党です。その独裁体制に変化が訪れたのは、1985年3月11日にミハイル・ゴルバチョフが共産党書記長(最高指導者)に就任した時でした。
彼はペレストロイカという政治体制の改革を主張します。ペレストロイカはロシア語で「再構築(再革命)」を意味し、集会や言論、宗教や出国の自由の他、冷戦終結宣言や初の核軍縮条約などの民主化政策が進められていきました。
これらの民主化政策は、旧ソ連以外の各国で高く評価されています。その一方で社会主義体制そのものの否定する事になり、ソ連の崩壊に繋がっていきました。
ゴルバチョフは社会主義体制の枠内での改革を目指していたものの、当時のソ連はいくつかの問題を抱えており、国民の不満は高まっていたのです。結果的にペレストロイカから6年後にソ連は崩壊しました。
原因②:民族紛争が激しくなっていたから
元々、ソ連やその傘下の社会主義国にはは100を超える民族が住んでおり、民族間の対立や国境問題などが生じやすい環境が存在していました。一連の諸問題をソ連が押さえつける形で、表面化する事はありませんでした。
だが、ソ連の弱体化と共にこれらの問題は表面化していきます。1986年末には、カザフ・ソビエト社会主義共和国の首都・アルマトイで初の民族紛争が勃発。アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国やグルジア・ソビエト社会主義共和国でも同様の問題が起きました。
一連の民族紛争で何千人もの命が奪われています。この民族紛争を経て、ソ連の傘下にいたソビエト連邦構成共和国の国々の「一部」はソ連からの独立を考えるようになります。この民族紛争はソ連の更なる弱体化を招く悪循環となり、ソ連崩壊の要因になりました。
原因③:ソ連の経済モデルが崩壊したから
ソ連の経済モデルは「国家による統制経済」です。これは全ての企業を国有化し、全ての勤労者は公務員となり国家が経済を統制するもの。アメリカ等の西洋諸国が掲げる「資本主義」とは相反するものでした。このイデオロギーの違いが「冷戦」の原因となるのです。
ところが、ソ連の掲げる経済政策は非効率なものでした。数十年の歳月を経て、ソ連の経済成長率は低下。商品の品質は悪化し、技術の進歩も鈍化しました。更に1980年代に原油の価格は下落。経済状況は更に悪化していきます。
この原油価格の下落の影響は大きく、スーパーも品薄状態が続き、国民の生活も困窮の一途を辿ったのです。この国民の不満を背景に、ソ連の崩壊は加速したのでした。
偉大なる祖国は何故滅亡してしまったのか分かりやすかったです。しかしソビエトは「蘇」ります。ウクライナを軍事的に侵攻し、併合した後、ジョージアまで全て併合してします。かならずやり遂げられると信じています。我が偉大なる祖国、万歳。