「ロマノフ王朝の歴史は?」
「ロマノフ王朝の皇帝たちは何をした?」
「ロマノフ王朝の都市伝説を知りたい!」
ロシアの歴史上最後の王朝であるロマノフ王朝。初代皇帝であるミハイル・ロマノフの即位によって、ロマノフ王朝と呼ばれることとなりました。
ロマノフ家の直系の血筋は途絶えたものの、その関係者が跡を継ぐことで、約300年間ロシアに君臨し続けました。そんなロマノフ王朝ですが、300年もの間ずっと安泰だったわけではありません。
この記事ではロマノフ王朝の歴史や歴代の皇帝たちについて解説し、ロマノフ王朝にまことしやかにささやかれる多くの謎をお伝えしていきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ロマノフ王朝とは?概要を簡単に解説
ロマノフ王朝とは
16世紀、当時はリューリク朝がロシアを治めていました。西暦1598年、フョードル1世が亡くなったことでリューリク朝は断絶し、それ以降ロシアは動乱期に入ります。
その中で16世紀末にフョードル・ニキーチチ・ロマノフが次第に勢力を拡大していきました。彼の息子であるミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが西暦1613年に初代ツァーリ(皇帝)として即位します。
当初ロマノフ家はロシア・ツァーリ国(1547年〜1721年まで使用されていたロシア国家の公称)を統治していましたが、後のピョートル1世がロシア帝国の建国を宣言しました。以降ロシアは帝政へと変化し、西暦1917年のロシア革命により倒れるまで続きました。
ロマノフ家とは
ロマノフ家とは、ロシア国内有数の貴族であったこと以外、はっきりとしたことはわかっていません。一説によると、ドイツ、プロイセン地方の血筋ではないかとも言われています。
14世紀のモスクワ大公に仕えていたアンドレイ・カビラという低位の貴族がロマノフ家の先祖ではないかと推測されて、現在は定説となりつつあります。初代ツァーリであるミハイル・ロマノフの祖父ニキータ・ユーリエフ=ザハーリンの代にリューリク家の親戚になったことで、徐々にロシア国内での地位を高めていきます。
そしてリューリク家最後の皇帝であるイヴァン4世死去後、首都モスクワを占領していたポーランドを撃退します。この功績が讃えられ、ミハイル・ロマノフが西暦1613年にツァーリとして擁立されました。
当時のロシアはアジア各国を植民地化し、多くの富を築いていました。ロマノフ家の財力は、オーストリア王室のハプスブルク家をも超えるほどと言われており、世界一の大富豪の名を欲しいままにしていたのです。
ロマノフ家が代々跡を継ぎ、政治体制が整ってくると、これまで政治を支えてきた貴族階級が没落しはじめました。これによってロマノフ家の一強時代が始まっていきます。
さらに他国の王室との婚姻によって、国々の関係性は強まり、ロシア国内だけでなく、国外においても影響力を強めるようになりました。特にドイツとの関係性が強く、ロマノフ家に見られる血友病はドイツ由来と言われています。
しかしながら、繁栄は長続きしません。20世紀初頭から徐々にロシア国民の不満や反感が表出し始めます。
ロマノフ家は国民の不満を解消しようと政策を打ち出したものの、国民の不満は募っていく一方でした。そしてロシア革命によってロマノフ家は処刑されることとなるのです。
2008年ロシア革命以降、不名誉の烙印を押されていたロマノフ家でしたが、ロシア最高裁判所によって、正式に名誉を回復させました。ロマノフ家もボリシェビキ政権という社会民主主義による被害者だと認められたのです。
ロマノフ王朝家系図
歴代のロシア・ロマノフ王朝の皇帝たち
ミハイル
全名 | ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフ |
生没年 | 西暦1596‐1645年 |
在位期間 | 西暦1613‐1645年 |
西暦1612年に首都モスクワを占拠するポーランド軍を撃退し、16歳の若さで初代ツァーリとして即位しました。1618年にポーランドと一時的な講和条約を結び、その間にロシア国内の政治体制を整えることに注力したのです。
1632年にポーランドの内政が混乱した状況を好機と判断したミハイルは、ポーランドに侵攻します。しかし返り討ちにあってしまい、ポーランドに優位な条件での講話を余儀なくされました。