近衛文麿は戦前に三度にわたって総理大臣に就任し、太平洋戦争を引き起こすきっかけを作った人物です。日中戦争では中国に対して早々に和平交渉を打ち切った他、日独伊三国同盟を締結してアメリカとの関係が悪化するなど、政策のほとんどは現在では批判されています。
戦後はA級戦犯として東京裁判で裁かれる予定でしたが、出頭最終日に青酸カリを服毒して自殺しました。太平洋戦争に至った責任は東條英機の責任が重いと考えられていましたが、研究が進むにつれて近衛の責任はそれ以上に重いと言われています。
厳しい評価の多い近衛ですが、太平洋戦争の最中には和平運動グループの中心人物になる等、終戦に対して功績を残しています。また近衛は国民からの支持は圧倒的に高く、日中戦争が勃発した際も多くの国民はそれを支持していたのは事実です。
このような情勢において近衛1人に戦争の責任を押し付けるのは酷な話です。「何故戦争が起きたのか」は現在に生きる私達も考える必要があるでしょう。
今回は近衛文麿の生き方に興味を持ち調べていった結果、戦前の日本史にのめり込んでいった筆者が近衛文麿について解説していきます。
近衛文麿とはどんな人物か
名前 | 近衛文麿 |
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誕生日 | 1891年10月12日 |
没日 | 1945年12月16日(54歳没) |
生地 | 東京市麹町区(現:千代田区) |
没地 | 荻外荘(東京都杉並区) |
配偶者 | 近衛千代子 |
父親 | 近衛篤麿 |
母親 | 前田衍子 (加賀藩藩主の前田慶寧の五女) |
埋葬場所 | 大徳寺(京都市北区) |
近衛文麿の生涯をダイジェスト
近衛文麿の生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 1891年 東京市麹町区にて誕生
- 1904年 父親の篤麿の死去に伴い、近衛家の当主となる
- 1916年 貴族院議員となる
- 1919年 パリ講和会議に参加
- 1937年 第一次近衛内閣が発足され1ヶ月後に盧溝橋事件が発生する
- 1939年 日中戦争の和平交渉に失敗し内閣を総辞職
- 1940年 第二次近衛内閣を発足する
- 1941年 第三次近衛内閣を発足するが日米交渉の失敗により総辞職
- 1943年 和平交渉グループの中心人物となる
- 1945年 終戦後、戦争責任をアメリカから問われ自殺する(享年54歳)
近衛文麿の子孫は?近衛家ってどんな血筋?
近衛家は藤原鎌足を祖とする家柄です。鎌倉時代には藤原家の嫡流は五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)に分家し、江戸時代まで五摂家が摂政や関白を独占しました。
近衛家は五摂家における筆頭で、藤原家の中で最も格調高い家柄です。過去には後陽成天皇の第4皇子が養子に入り、天皇家の血筋も受け継いでいます。近衛文麿は近衛家の第30代当主であり、後陽成天皇の12世孫になるのです。
近衛は豊後佐伯藩主の次女である千代子と恋愛結婚し、二男二女をもうけます。 以下の人達は近衛文麿の子供です。
- 近衛文隆(1915〜1956年):陸軍軍人であり、シベリア抑留で死去。
- 野口昭子(1916〜2004年):薩摩藩主島津家に嫁ぐが、整体師の野口晴哉と再婚。
- 細川温子(1918〜1940年):肥後熊本藩主細川家に嫁ぐ。
- 近衛通隆(1922〜2012):東京大学教授等を歴任する。
以下の人達は近衛文麿の子孫です。
- 近衞忠輝(1939〜):温子の次男であり近衛家31代当主。日本赤十字社名誉社長。
- 細川護熙(1938〜):温子の長男で、79代総理大臣。
- 東隆明(1944〜):文隆の子供で俳優や脚本、作詞等を行う。
他にも多くの分野で子孫が活躍しています。
第一次近衛内閣の政策は?日中戦争と近衛文麿
第一次近衛内閣は1937年6月に発足し、任期中に起きた日中戦争の対応に追われました。
7月7日に北京の盧溝橋で日本軍と中国軍による武力衝突が起こります。当初は近衛も陸軍も不拡大方針を唱え停戦協定が結ばれました。しかし蒋介石が増援する報告を聞くと、近衛は報道陣に派兵を大々的に発表したのです。
その後も近衛は陸軍が希望しない追加予算を閣議決定した他、和平交渉を途中で打ち切る等、不拡大とは反対の方向に突き進んでいきます。やがて一連の武力衝突は第二次上海事変を経て日中戦争へと拡大したのです。
1938年にはドイツを仲介とした和平交渉、トラウトマン工作が展開されます。しかし同時期に日本が南京を制圧した為、近衛は賠償金の釣り上げなどを画策し、有名な第一次近衛声明を発表し、和平交渉を打ち切りました。
有名な一文は以下の通りです。
国民政府を相手とせず
しかし南京攻略後も日中戦争は終結せず、戦争は泥沼化していくのでした。
第二次、第三次近衛内閣の政策は?
第二次近衛内閣は1940年7月22日に発足し、以下の政策を行いました。
- 7月 基本国策要綱の制定
- 9月 日独伊三国同盟の締結
- 10月 大政翼賛会の結成
- 1941年4月 日ソ中立条約を締結
更に第三次近衛内閣は1941年7月18日に発足し、以下の政策を行いました。
- 7月 南部仏印進駐を実行
- 9月 帝国国策遂行要領の決定
- 10月 アメリカとの交渉がまとまらず総辞職
近衛内閣は様々な政策を行いますが、これらは日中戦争の収束が目的でした。日中戦争が泥沼化しているのはアメリカやイギリスが中国の支援をしていたからです。
近衛は当時破竹の勢いで領土を拡大するドイツと手を組んでアメリカやイギリスに対抗しようと画策。日独三国同盟を締結するものの、これはアメリカを逆なでする行為でした。
アメリカは石炭や石油等の日本への輸出を中止する等、事あるごとに日本への締め付けを強めていきます。近衛内閣は日中戦争の解決を見出せないまま、対米開戦の引き金を抜いてしまうのです。
詳しい経過は近衛文麿の年表にて解説します。
近衛文麿の死因は?戦争責任を問われて自殺したって本当?
近衛は1945年12月16日未明に青酸カリを服毒して自殺しています。それは戦後にGHQから出頭を命じられた最終期限日の事でした。
死の前日、弟の秀麿は弱り切った文麿の顔をみて自殺する事を予知し、家中に毒物がないかを探しました。文麿が入浴中に脱衣場をみても毒物は見つからず、出頭する気になったと安心し、寝入ってしまいます。
実は文麿は青酸カリを肌身離さず身につけており、自殺する意思は揺らぐ事はなかったのです。秀麿が午前3時頃に文麿の部屋に行くと、既に文麿は死亡していました。
近衛は証言台に立つ事はなく死を選びましたが、覚悟と見るか、逃げとみるかは評価が分かれているのです。
近衛文麿の功績
功績1「パリ講和会議で人種的差別撤廃提案に加わる」
1921年に近衛は第一次世界大戦後の世界のあり方について話し合うパリ講和会議に参加しました。この会議で日本は主要国として参加。以下の事が決められます。
- 国際連盟の設立
- 東欧の諸民族の民族自決
- 軍縮問題
- ドイツへの賠償金問題等
逆に否決されたのが人種的差別撤廃提案 でした。
この提案は日本が挙げたもので、近衛も同意しています。目的は欧米に移住した日本人への差別の解消、国際連盟理事となった日本が人種を目的に発言権を削られないようにする為でした。
この提案は差別が常態化していた欧州や、日本を脅威に感じたアメリカには受け入れられませんでした。投票では賛成多数だったものの、アメリカの権限で否決されています。
国際会議で初めて人種差別について言及したのは日本であり、私達は誇りに思う事でしょう。なお近衛は否決された事で白人に対して強い不信感を抱いたとされます。
功績2「戦時中は和平交渉運動グループの中心人物となる」
戦争の火種を作った近衛ですが、戦時中は和平運動に積極的に動きます。戦時中は元総理大臣で構成される重臣達や、吉田茂等の外交官、陸軍内の反東條英機派等、持ち前の顔の広さを活かしたのです。
1945年2月には3年4ヶ月ぶりに昭和天皇と謁見し近衛上奏文を提出。「米英は天皇制の変革を求めていない」「ソ連を講和相手にはしない方が良い」「共産主義の軍部の革命に注意するべき」という内容でした。
当時はソ連を仲介にした講和論が主流でしたが、近衛はソ連がアテにならない事、米英が天皇制変革の意思がない事を様々なルートから把握し、国際情勢を冷静に分析していました。
結局日本はソ連を仲介にした講和を進めています。これは秘密裏に対日参戦を想定していたソ連により拒否されています。近衛の案が採用されていれば、もう少し早い段階で終戦を迎えられたかもしれません。
功績3「戦後、東久邇宮内閣の国務大臣として活躍する」
1945年8月15日に日本は無条件で降伏し、鈴木貫太郎内閣の代わりに皇族である東久邇宮稔彦王が8月17日に内閣を発足します。近衛は総理格の国務大臣として入閣し、内閣の中心人物として活躍しました。
東久邇宮が戦後直後に総理大臣になったのは、敗戦直後の国内は混乱が予想され、皇族による権威が必要と考えていた為でした。しかし東久邇宮は皇族かつ軍人で政治経験がなく、近衛に一切を任せていたのです。
東久邇宮内閣では以下の事が行われます。
- 占領軍の進駐
- 降伏文書の調印
- 軍の解体
- 行政機構の平時化
東久邇宮内閣は歴代最短の54日で退陣するものの、国内の混乱をある程度終息させた事からその功績は大きいのです。内閣で陣頭指揮を執った近衛の功績も特筆すべきでしょう。
近衛文麿の名言
この重大な時局を乗切るためには、どうしても各方面の相剋摩擦の緩和に重点を置き、真に挙国一致の協力によってやって行かなければならぬと思うのであります
総理大臣就任直後の近衛の演説の一文です。近衛がラジオで演説すると、政治に無関心な各家庭の女性達も大騒ぎしてラジオのスイッチを入れたそうです。
日中戦争へ足を踏み込んだ時も、近衛はラジオの力を使い、世論の支持を得て行きました。上記の言葉は名言というよりも、マスメディアが与える影響を考えるきっかけになるのではないでしょうか。
私は戦争には自信がない。自信のある人にやってもらわねばならぬ
東條英機との対立の末に、内閣を総辞職した時の言葉です。情勢の悪化を招いた事への反省はなく、さりげなく次の総理大臣に責任を転嫁している事が分かります。この言葉は近衛の性格を端的に表しているのです。
自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る
文麿は死の前日には次男の秀麿に遺書を残しています。政治家として批判される事の多い近衛ですが、彼はどのような覚悟を持って死を選んだのでしょうか。
近衛文麿の人物相関図
こちら近衛家の家系図です。近衛家は藤原鎌足・藤原道長・天皇等、日本有数の家柄である事が分かりますね。
近衛文麿にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「近衛文麿の夢は哲学者だった」
青年時代の近衛は哲学者になる夢がありました。近衛は夢を叶える為、東京帝国大学哲学科、京都帝国大学法科大学に進学。結果的に哲学者にはなれなかったものの、京都帝国大学では社会主義思想を詳しく学びました。
近衛は第一次近衛内閣時代に配給制度や国家総動員体制等を提案しますが、社会主義思想、共産主義思想が影響しています。哲学者になる為の進学は、違った影響を近衛に与えたのです。
なお近衛は博識で人当たりの良い性格でしたが、政治家には向いていなかったようです。結果的には近衛家の当主という立場から、貴族院議員となり政治の世界に足を踏み入れました。弟の秀麿はこのように述べています。
今考えれば兄は政治家にまったく向いていなかったと思う。哲学者や評論家になればあんな最期を迎えることはなかったのに
もし哲学者の夢を叶えていれば、近衛も戦犯として罪に問われる事はなく自殺する事もなかったでしょう。
都市伝説・武勇伝2「実は文麿はソ連のスパイだった?側近が起こしたゾルゲ事件」
実は近衛はソ連のスパイという説があります。理由は1941年9月に起きたゾルゲ事件です。これはリヒャルト・ゾルゲが率いるソ連のスパイ団体が日本で諜報活動を行っていた事が発覚し、多数の逮捕者が出た事件でした。
スパイの中心人物は近衛のブレーンの尾崎秀実でした。尾崎と近衛は親密な間柄であり、近衛も関与が疑われました。しかし同時期に近衛は内閣を総辞職し、12月には英米開戦が起きた為、うやむやになります。
ただ近衛がスパイというのは都市伝説に過ぎないとされます。近衛はソ連との和平交渉に否定的だった事や、長男の文隆はシベリア抑留の際に死去している事が挙げられます。
ただ尾崎が近衛を裏で操っていた事はあるかもしれません。尾崎も死刑となり、近衛も自殺した事から真相は謎のままなのです。
都市伝説・武勇伝3「実は自殺ではなく、他殺だった?」
近衛は自殺したのではなく殺されたと主張する人もいます。他殺の根拠は以下の通りです。
- 自殺に使われた青酸カリは死亡発見時にシアン化合物の毒性が残るが、発見者は窓を開ける等の措置をしていない。
- 前夜から近衛家に寝泊まりしていた者達の意見が食い違っている。
- 東京裁判に向けて反証の文章を準備するなど、出頭に向けた準備をしていた。
もし近衛が殺されたのなら、スパイ説も信憑が増しますね。ただ近衛は死の前日に口述遺書を遺している経緯もある為、やはり自殺が有力だと考えられます。
スパイ説も他殺説も今となっては真相がわかる事はないでしょう。
近衛文麿の簡単年表
近衛文麿は1891年10月12日に誕生します。命名したのは幕末に公武合体派として活躍した祖父の近衛忠煕です。読みは「あやまろ」だと響きが悪い為「ふみまろ」となりました。
父の篤麿が41歳で死去すると、近衛は12歳で当主となりました。ただ篤麿は多額の借金を遺しており、当初は苦労していたようです。
近衛は25歳になった為、華族令にともなって貴族院議員となりました。旧体制の貴族院のあり方に不満を感じ1927年には火曜会を結成する等、独自の基盤を作りました。
満州事変が勃発する等、徐々に軍部が暴走を始めます。近衛は新聞各紙に満州事変を正当とする論調を発表し、大衆や軍部に支持されます。
1933年には貴族院議長となり、院内の革新派の指導的立場になりました。
元老西園寺公望の推薦により、近衛が総理大臣に就任します。国民の支持は圧倒的に高かったものの、盧溝橋事件を発端に日本を戦争へと引きずりこんでいきました。
1月に第一次近衛内閣は日中戦争に明確な手を打てずに総辞職します。続く平沼騏一郎内閣で近衛は班列として就任。近衛内閣で決められた日中戦争の和平工作や、国家総動員体制が形作られていきました。
日中戦争に対抗する為、近衛はソ連やナチスをモデルにした一党独裁による近衛新体制を提唱。7月には再度内閣を発足しました。日独伊三国同盟など、様々な体制が作られるものの、結果的に状況は悪化。翌年に日米開戦の直前に内閣を総辞職しました。
太平洋戦争が勃発すると近衛は和平運動の中心に立ち、積極的な行動を始めます。1945年2月には「近衛上奏文」を奏上した他、ソ連に特使として派遣される計画もありました。
戦後に東久邇宮内閣に入閣し、マッカーサーから新たな憲法の作成を命じられる等、戦後の復興に力を注ぎます。後にA級戦犯として出頭を命じられますが、最終日に青酸カリで自殺しました。
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