近衛文麿にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「近衛文麿の夢は哲学者だった」
青年時代の近衛は哲学者になる夢がありました。近衛は夢を叶える為、東京帝国大学哲学科、京都帝国大学法科大学に進学。結果的に哲学者にはなれなかったものの、京都帝国大学では社会主義思想を詳しく学びました。
近衛は第一次近衛内閣時代に配給制度や国家総動員体制等を提案しますが、社会主義思想、共産主義思想が影響しています。哲学者になる為の進学は、違った影響を近衛に与えたのです。
なお近衛は博識で人当たりの良い性格でしたが、政治家には向いていなかったようです。結果的には近衛家の当主という立場から、貴族院議員となり政治の世界に足を踏み入れました。弟の秀麿はこのように述べています。
今考えれば兄は政治家にまったく向いていなかったと思う。哲学者や評論家になればあんな最期を迎えることはなかったのに
もし哲学者の夢を叶えていれば、近衛も戦犯として罪に問われる事はなく自殺する事もなかったでしょう。
都市伝説・武勇伝2「実は文麿はソ連のスパイだった?側近が起こしたゾルゲ事件」
実は近衛はソ連のスパイという説があります。理由は1941年9月に起きたゾルゲ事件です。これはリヒャルト・ゾルゲが率いるソ連のスパイ団体が日本で諜報活動を行っていた事が発覚し、多数の逮捕者が出た事件でした。
スパイの中心人物は近衛のブレーンの尾崎秀実でした。尾崎と近衛は親密な間柄であり、近衛も関与が疑われました。しかし同時期に近衛は内閣を総辞職し、12月には英米開戦が起きた為、うやむやになります。
ただ近衛がスパイというのは都市伝説に過ぎないとされます。近衛はソ連との和平交渉に否定的だった事や、長男の文隆はシベリア抑留の際に死去している事が挙げられます。
ただ尾崎が近衛を裏で操っていた事はあるかもしれません。尾崎も死刑となり、近衛も自殺した事から真相は謎のままなのです。
都市伝説・武勇伝3「実は自殺ではなく、他殺だった?」
近衛は自殺したのではなく殺されたと主張する人もいます。他殺の根拠は以下の通りです。
- 自殺に使われた青酸カリは死亡発見時にシアン化合物の毒性が残るが、発見者は窓を開ける等の措置をしていない。
- 前夜から近衛家に寝泊まりしていた者達の意見が食い違っている。
- 東京裁判に向けて反証の文章を準備するなど、出頭に向けた準備をしていた。
もし近衛が殺されたのなら、スパイ説も信憑が増しますね。ただ近衛は死の前日に口述遺書を遺している経緯もある為、やはり自殺が有力だと考えられます。
スパイ説も他殺説も今となっては真相がわかる事はないでしょう。
近衛文麿の簡単年表
近衛文麿は1891年10月12日に誕生します。命名したのは幕末に公武合体派として活躍した祖父の近衛忠煕です。読みは「あやまろ」だと響きが悪い為「ふみまろ」となりました。
父の篤麿が41歳で死去すると、近衛は12歳で当主となりました。ただ篤麿は多額の借金を遺しており、当初は苦労していたようです。
近衛は25歳になった為、華族令にともなって貴族院議員となりました。旧体制の貴族院のあり方に不満を感じ1927年には火曜会を結成する等、独自の基盤を作りました。
満州事変が勃発する等、徐々に軍部が暴走を始めます。近衛は新聞各紙に満州事変を正当とする論調を発表し、大衆や軍部に支持されます。
1933年には貴族院議長となり、院内の革新派の指導的立場になりました。
元老西園寺公望の推薦により、近衛が総理大臣に就任します。国民の支持は圧倒的に高かったものの、盧溝橋事件を発端に日本を戦争へと引きずりこんでいきました。
1月に第一次近衛内閣は日中戦争に明確な手を打てずに総辞職します。続く平沼騏一郎内閣で近衛は班列として就任。近衛内閣で決められた日中戦争の和平工作や、国家総動員体制が形作られていきました。
日中戦争に対抗する為、近衛はソ連やナチスをモデルにした一党独裁による近衛新体制を提唱。7月には再度内閣を発足しました。日独伊三国同盟など、様々な体制が作られるものの、結果的に状況は悪化。翌年に日米開戦の直前に内閣を総辞職しました。
太平洋戦争が勃発すると近衛は和平運動の中心に立ち、積極的な行動を始めます。1945年2月には「近衛上奏文」を奏上した他、ソ連に特使として派遣される計画もありました。
戦後に東久邇宮内閣に入閣し、マッカーサーから新たな憲法の作成を命じられる等、戦後の復興に力を注ぎます。後にA級戦犯として出頭を命じられますが、最終日に青酸カリで自殺しました。