近衛文麿とはどんな人?生涯・年表まとめ【政策や戦争責任、スパイ説や死因も紹介】

1939年 – 47歳「平沼内閣と近衛新体制」

平沼騏一郎内閣の班列に就任

汪兆銘との和平交渉が失敗に終わった近衛は1939年1月に内閣を総辞職。続いて平沼騏一郎が内閣を発足しました。近衛を含む多くの閣僚がそのまま入閣しており「平沼・近衛交流内閣」と呼ばれました。

平沼内閣では一応汪兆銘政権を樹立させますが、国民政府からは全く相手にされていません。更に近衛内閣を引き継ぐ形で、国民総動員体制が形成されていくのです。なお平沼内閣は8月に総辞職しています。

近衛新体制を提唱

近衛はナチス等の一党独裁により、日中戦争などの国難を乗り切るべきという考えに至ります。1940年6月に近衛は「近衛新体制」を提唱。「バスに乗り遅れるな」をスローガンに、国民全体が近衛新体制に期待を抱きます。

陸軍も近衛新体制に賛同し、穏健派の米内光政内閣を7月に総辞職させています。そして内大臣の木戸幸一は次期総理大臣に近衛を指名。再び近衛に総理大臣の座が回ってきたのです。

1940年 – 48歳「第二次近衛内閣発足」

日独伊三国同盟の締結を報道する新聞

日本から政党がいなくなる

1940年7月22日に第二次近衛内閣が発足します。26日には「日本中心の東亜諸民族による共存共栄」である大東亜共栄圏の建国を「基本国策要綱」に盛り込みます。

更に一党独裁を推し進める為、近衛は全政党を自主的に解散する事を指示。8月15日の民政党の解散をもって、日本から政党は消滅します。戦前の議会政治はこの時に終わりを迎えました。

日独伊三国同盟の締結

9月27日には日独伊三国同盟を締結。これは第二次世界大戦で破竹の勢いを誇るドイツと同盟を組み、日中戦争で中国を支援するアメリカを牽制する目的がありました。当然ながらアメリカは日本への警戒を強めます。

なお西園寺公望は同盟が締結された時に以下のように述べました。

これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ

後継者候補だった近衛は、西園寺の描いた政治家になる事はありませんでした。それから2ヶ月後に西園寺は92歳で死去しています。

1940年 – 48歳「大政翼賛会の発足」

大政翼賛会発足の様子

大政翼賛会の発足

新体制運動への体制作りは進められ、名前は「大政翼賛会」と決定。総裁はもちろん近衛でした。ただ政党や軍部などの異なる意見がまとまるはずがありません。10月12日の発会式で近衛は以下のように述べました。

大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。これ以外には、実は綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において方向の誠を致すのみである

近衛新体制とはナチスのような政党を作り、近衛がヒトラーのように日本を牽引する狙いがありました。近衛は発会式で政策はありませんと述べた為、大政翼賛会は発足日に意味を失ったのでした。

1941年 – 49歳「第二次近衛内閣総辞職」

日ソ中立条約に調印する松岡洋右

日ソ中立条約を締結

1941年4月には外務大臣松岡洋右により、ソ連のスターリンと日ソ中立条約が締結されます。松岡は日独伊三国同盟にソ連を加えて四国同盟にし、アメリカに対抗する目的がありました。

同時期にアメリカでは日中戦争に対する和平交渉が行われており、かなり有利な条件が出されています。近衛もアメリカとの和平交渉を進めたかったものの、松岡の反発により失敗に終わっています。

松岡洋右を内閣から外す為に総辞職する

その後6月22日にドイツとソ連の戦争である独ソ戦が勃発。松岡の構想は破綻し、日本は2つの選択肢を強いられます。

  • 日独伊三国同盟をとり、ソ連と戦争をする
  • 日ソ中立条約をとり、ソ連と関わらずに資源を求めて東南アジアへ兵を進める

この時にソ連との戦争を強硬に唱えたのが松岡でした。松岡は東南アジアへ兵を進める事は周辺に植民地を持つアメリカを敵に回すと主張したのです。

近衛は日中戦争が泥沼化している中で、ソ連とも戦うのは無謀と判断。あくまで日米交渉に乗り気だった近衛は、意見が対立し日米交渉に否定的な松岡を罷免する為に内閣を総辞職するのでした。

1941年 – 49歳「第三次近衛内閣発足」

第三次近衛内閣

松岡抜きの近衛内閣

1941年7月に第三次近衛内閣が発足。松岡を閣僚から外す事でソ連との戦争を回避しますが、同時に東南アジアへ兵を進める反対意見がなくなった事を意味します。

近衛は7月28日に東南アジアへ兵を派遣すると、アメリカは8月1日には報復として日本への石油の輸出禁止を断行。松岡を外した事で結果的にアメリカとの仲は決定的に悪くなりました。

東條英機との対立

陸海軍は9月2日に「帝国国策遂行要領」を作成し、近衛も同意します。これは10月半ばまでにアメリカとの交渉がまとまらなければ日米開戦を行うという内容でした。

昭和天皇は外交で解決を図る事を望みますが、近衛は陸海軍から反発される事を恐れて、政策の変更は行いませんでした。近衛は日米交渉に奔走するものの、10月2日にはアメリカから会談を拒否する回答が届きます。

更に中国から兵を撤退する事に対し、陸軍の東條英機は断固反対を述べました。結果的にアメリカとの交渉はまとまらず、近衛は期限が迫った10月16日に政権を投げ出し、18日に内閣は総辞職するのです。

1941年 – 49歳「太平洋戦争勃発」

近衛内閣の陸軍大臣だった東條英機

東條英機内閣が発足する

近衛が政権を投げ出した後、総理大臣に任命されたのは東條英機でした。内大臣の木戸幸一は強硬派だが、天皇への忠誠心の厚い東條をあえて総理大臣に据える事で、戦争の回避を図ったのでした。

東條は帝国国策遂行要領を一旦白紙に戻して、アメリカとの交渉を行いますが、結果的に交渉はまとまらず、12月8日に太平洋戦争が始まります。

太平洋戦争の責任者として東條英機が筆頭に挙げられますが、日中戦争から帝国国策遂行要領に至る過程は近衛が作り上げたものなので、戦争責任という点では近衛の責任もかなり重いと言えるのです。

1944年 – 53歳「和平グループの中心人物となる」

1946年ごろの昭和天皇

和平グループの中心人物へ

太平洋戦争が不利になり始めた1943年頃から、近衛は優柔不断な態度がなくなり、和平グループの中心人物となりました。その行動は功績2の「戦時中は和平交渉運動グループの中心人物となる」で述べた通りです。

1944年には東條の退陣論が出始めます。近衛は天皇に責任が及ぶ事を恐れて、東條に責任を負わせる事を提案し、以下の事を述べています。

このまま東條に政権を担当させておく方が良い。戦局は、誰に代わっても好転する事は無いのだから、最後まで全責任を負わせる様にしたら良い

1945年8月15日にはようやく日本は終戦を迎えました。

1945年 – 54歳「新たな憲法作りを任される」

ダグラス・マッカーサー
出典:Wikipedia

東久邇宮稔彦王内閣発足

戦後、近衛は東久邇宮稔彦王内閣の国務大臣となりました。その時の功績は「戦後、東久邇宮内閣の国務大臣として活躍する」で述べた通りです。内閣在籍中にはマッカーサーから憲法改正作業を命じられています。

10月5日には東久邇宮内閣は総辞職し、近衛は公の場から離れ私人となりました。しかし近衛は内大臣府御用掛に命じられる等、新たな国作りに重用されていたのです。

戦犯容疑をかけられる

連合国は終戦後まもない段階で東京裁判の準備が始まっています。実は近衛が国務大臣になっていた9月11日の段階で、東條英機などがA級戦犯として逮捕命令が出ています。

近衛は新たな憲法作りを任された段階で自分が戦犯になるとは考えていませんでした。ただ国内外では総理大臣時代の政策や、近衛新体制の提唱など、徐々に戦争責任問題が追求され始めます。

とうとう10月26日のニューヨーク・タイムズで、「近衛が憲法作成に関わるのは不適当である」と掲載されるのです。11月9日には近衛は米国戦略爆撃調査団から厳しい取り調べを受けるのでした。

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