近衛文麿とはどんな人?生涯・年表まとめ【政策や戦争責任、スパイ説や死因も紹介】

近衛文麿の年表

1891年 – 0歳「近衛文麿誕生」

近衛文麿の父である篤麿

複雑な生い立ち

近衛は1891年10月12日に近衛篤麿と衍子の長男として誕生。衍子は文麿を産んで9日後に亡くなり、篤麿は後妻として衍子の妹の貞子を妻に迎えます。その後、篤麿と貞子の間には三男一女が産まれています。

貞子にとって文麿は前妻の子なので、貞子は文麿をあまり良く思いませんでした。文麿は成人してから貞子が義理の母という事を知り「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」と強い衝撃を受けています。

兄弟仲はよかった

貞子と文麿の仲は微妙だったものの、兄弟仲は良かったそうです。後年に弟の秀麿は以下のように文麿の事を語っています。

小さい時、自分は兄の話を聞くのがとても楽しみだった。博識な兄は外国のことや宇宙のことにとてもよく通じていて、世界の秘密を話してくれるように兄は自分にいろいろなことを教えてくれたものである。

幼少期の文麿はとても博識で優しかったようですね。

1904年 – 12歳「近衛家の当主となる」

近衛夫妻の結婚 (文麿21歳 千代子19歳)

父親の篤麿死去

文麿の父親である篤麿は貴族院議長を務めつつも、アジア主義やロシアへの強硬路線を唱える人物でした。そんな篤麿は1904年に42歳で病死。文麿は12歳で第30代近衛家の当主となります。

篤麿は多額の借金を残した為、文麿は借金も相続しました。借金取りが家に来た時は篤麿の支持者達がそれを撃退したそうです。そんな恩義もあり、近衛もまたアジア主義に関心を持つようになりました。

第一高等学校に進学

華族の子は学習院高等科に進む事が通例ですが、近衛は新渡戸稲造が校長を務める第一高等学校に進学し、1912年に卒業しました。

その後は前述した通り、哲学者になる為に東京帝国大学哲学科、京都帝国大学法科大学に進学しています

ちなみに近衛は一高を卒業する前に千代子に一目惚れし、交際が始まります。2人は近衛が京都大学進学中に結婚。当時としては珍しい恋愛結婚だったのです。

1916年 – 25歳「貴族院議員となる」

貴族院議場

世襲制で貴族院議員となる

五摂家の男性は25歳になると、無条件で貴族院議員に任命されます。近衛もまた議員となるのですが、1918年に「英米本位の平和主義を排す」という論文を発表する等、父親の影響を強く受けていました。

1919年にはパリ講和会議に出席。全権は公家出身の政治家で、最後の元老となる西園寺公望でした。西園寺は近衛を自身の後継者になるよう期待し、近衛を連れて行ったのです。

西園寺は政党政治を重視する親米英派でしたが、近衛は大学でソ連等の社会主義的思想を学び、米英に反感を持つなど2人の考え方は異なっていました。これらの考えの違いは後に大きな亀裂を作るのです。

1927年 – 36歳「政界で影響力を持つようになる」

貴族院本会議にて勅語を朗読する近衛文麿

満州事変が勃発する

1931年に陸軍の関東軍は柳条湖付近の満州鉄道の線路を爆殺させます。それを中国軍の犯行と発表する事で満州を占領。いわゆる満州事変を起こします。

近衛は新聞に満州事変の正当性を訴える主張を掲載し賛同を集めました。内容は以下の通りです。

発展力のある民族が狭い領土に閉じ込められている一方、広大な領土と資源に恵まれたところがあって人口も少ないという状態は、合理的ではない。かつて恣に植民地を収奪した先進大国のいう平和は、その現状維持を図るための平和に過ぎない。

1933年に近衛は貴族院議長になり、翌年には後に和平交渉のキーマンになるフランクリン・ルーズベルト大統領と会談しています。この頃から近衛は次期総理大臣とみなされるようになりました。

1937年 – 45歳「第一次近衛内閣発足」

第一次近衛内閣時代の近衛文麿
後方に海軍大臣の米内光政

大きな期待を寄せられて総理大臣に

1937年6月に近衛はとうとう総理大臣となります。本当は二・二六事件の後に西園寺から打診を受けていましたが、表向きは病気を理由に断っています。

近衛家の貴公子、端正な顔立ち、180cmを超える長身、総理大臣就任時の年齢は45歳7ヶ月と伊藤博文に次ぐ2番目の若さでした。国民はもちろん、財界や政界、陸海軍からの印象も良く、大きな期待を寄せられました。

二・二六事件の逮捕者の特赦を提案する

近衛は就任早々に「国内各論の融和を図る」と述べ、二・二六事件の逮捕者や、治安維持法で逮捕された共産党員の特赦を提案し周囲を驚かせます。反対意見も多く採用はされませんでしたが、不安を感じる始まりでした。

1937年 – 45歳「日中戦争が勃発する」

国民政府トップだった蒋介石

日中戦争の泥沼化

近衛が総理大臣に就任してから1ヶ月後に盧溝橋事件が起こり、日中戦争に発展した事は「第一次近衛内閣の政策は?日中戦争と近衛文麿」で述べた通りです。

何度か和平が検討されますが、それらは以下の流れで失敗に終わりました。

  • 1937年7月 蒋介石と首脳会談が予定されるが、直前で近衛が心変わりして中止。
  • 1938年1月 トラウトマンを仲介に和平がまとまるが「国民政府を相手とせず」と第一次近衛声明を出して交渉は決裂。
  • 1938年5月 穏健派の陸軍軍人、宇垣一成に和平交渉をお願いするが、陸軍の強硬派に押されて宇垣の外交の権限を取り上げる。

新たなる和平交渉

度重なる交渉の決裂により、蒋介石との仲は険悪になりました。近衛は国民政府のNo.2の汪兆銘に目をつけます。汪兆銘は親日的で、日本との和平を模索している人物でした。

近衛は汪兆銘を国民政府から離脱させて親日政権を作り、そこで和平交渉を行う事を考えます。和平交渉は新たな段階に足を踏み入れたのでした。

1938年 – 46歳「汪兆銘との和平交渉に奔走する」

国民政府No.2の汪兆銘

第二次近衛声明

1938年11月に近衛は東亜新秩序という「日本を盟主とし東アジアに大規模な経済圏を作る」という構想を立ち上げ、第二次近衛声明を発表します。内容は以下の通りです。

国民政府といえども新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず

つまり「国民政府でも東亜新秩序の建設に同意するなら、和平交渉に応じる」という事であり、第一次近衛声明を緩和したのです。汪兆銘が東亜新秩序に同意し、国民政府から離脱します。

第三次近衛声明

後は汪兆銘が中国の覇権を握り、汪兆銘と和平交渉を結べば日中戦争は終結です。近衛は汪側の側近と今後の方針を話し合った上で、12月に第三次近衛声明を発表します。内容は以下の通りです。

善隣友好,共同防共,経済提携

つまり「日本と中国は仲良く、共産主義を拒絶して経済的にも提携しよう」というものです。近衛は国民政府の多くが汪兆銘に寝返ると考えていたものの、汪兆銘に寝返ったのは僅かな側近だけでした。

更に声明には事前に取り決めた「日本軍の撤兵」の一文が削除されていました。これはスパイの尾崎が行ったという説が有力です。12月に蒋介石は汪兆銘を国民政府から追放。近衛の工作は失敗に終わるのです。

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