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Q1/Q30

平清盛の出身国は次のうちどこでしょう?
清盛は、母親が白河法皇の女中であったため、平安京があった京都府京都市で出生したという説が有力です。
Q2/Q30

平清盛の父親であるこの人物は次のうち誰でしょう?
平忠盛は伊勢平氏の棟梁であり、鳥羽法皇などの院政下において武力面を支えた人物です。また、歌人としても知られ、家集に「平忠盛集」などがあります。
Q3/Q30
平忠盛ら武士が上皇などを守るために院御所に設置された武士のことを何というでしょう?
北面武士とは、上皇が院政を行う際に集められた武士の集団の事であり、院御所の北側に近衛兵として詰められたことから北面武士と呼ばれるようになりました。その数は、延暦寺の僧兵が強訴した際に、迎え撃った軍勢だけでも「千余人」に達したといわれています。
Q4/Q30

1072年に天皇に即位後、藤原氏の摂関政治を嫌い、親政を目指し、その後、上皇として院政を始めたこの人物は次のうち誰でしょう?
白河天皇は1072年に後三条天皇から譲位され、20歳で天皇に即位しました。その後、父である後三条天皇と同様に親政を目指し荘園整理を行うなど、藤原家の権威を弱めようと努め、1086年には堀河天皇に譲位し、自身は法皇としてエイジの実権を掌握するという院政を始めました。
Q5/Q30

1156年、皇位継承問題や摂関家の内紛などがきっかけとなって勃発した合戦は次のうちどれでしょう?
保元の乱は、1156年に平安京で起きた戦いで、皇位継承問題や藤原家の内紛などを巡り後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれて争った合戦です。
Q6/Q30

保元の乱において、後白河天皇方に敗れたこの人物はどこへ配流されたでしょうか?
画像の人物は、後白河に敗れた崇徳上皇であり、敗戦後は朝廷に出頭し、讃岐へと流されました。上皇ならびに天皇が配流されたのは、淳仁天皇以来の出来事で、実に300年ぶりだったそうです。また、この一件から崇徳院を「讃岐院」と呼ぶようになったともいわれています。
Q7/Q30

次のうち、崇徳院が歌ったとされる「小倉百人一首」に収録されている短歌は次のうちどれでしょう?
この歌は「滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう。」と言う恋の歌です。また、この歌を題材にした「崇徳院」という古典落語の演目があります。 

Q8/Q30

この合戦において、崇徳上皇方に味方し、敗戦後、伊豆大島へと流され、伊豆諸島を支配したと言われる射手の名手と言われた武将は次のうち誰でしょう?
源為朝は、源為義の八男であり、剛弓の使い手として知られた武将です。父である為義に持て余されたために、九州へ流されるも、手下を集め九州一帯を支配し「鎮西八郎」を名乗ったという伝説も残っております。
Q9/Q30
この合戦の戦後処理を任され、崇徳上皇方の武士を処断するために死刑を復活させ、自分の息子に要職を就けさせるなどしたことから、天皇の側近から反感を買うことになった僧侶は次のうち誰でしょう?
信西は、出家前は藤原通憲と言う人物で、官職に就けない事の失望感から僧侶になった人物です。保元の乱後は、後白河天皇方に付き、天皇親政と摂関家の弱体化を推し進めるなど側近として権力を振るわせました。しかし、その事が他の天皇側近や軍事貴族などから反感を買い、1159年に反信西派から屋敷を襲撃され、自害し、晒し首にされました。 
Q10/Q30

この保元の乱の勝者である藤原忠通の息子である僧侶・慈円が書き記した歴史書は次のうちどれでしょう?
愚管抄は、慈円が鎌倉時代初期に成立させた歴史書で、初代である神武天皇から84代の順徳天皇までの歴史をまとめております。また、僧侶ならではの末法思想と道理に基づいた客観的な歴史的変遷をまとめた作品となっています。 

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