北条義時の年表
1163年 – 0歳「北条義時誕生」
謎に包まれた幼少期
義時は1163年に北条時政の次男として伊豆の国に生まれます。姉に頼朝の妻となる政子、頼朝の異母弟の阿野全成に嫁ぐ阿波局、兄に嫡男である宗時がいます。幼少期の事は記録に残されておらず、詳しくは不明です。
義時の幼名は小四郎。4番目の子供だからなのか、宗時の上に天逝した2人の兄がいたのかも分かってはいません。なお宗時の幼名は三郎である為、兄がいたのではないかと個人的には思います。
源頼朝が伊豆に配流される
なお義時が生まれる数年前の1160年に、源義朝の三男であった頼朝が伊豆の地に流罪。この時に頼朝の監視役になったのが時政でした。この地で頼朝は長い年月を過ごす事となるのです。
1177〜1180年 – 14〜17歳「政子の婚姻と源頼朝の挙兵」
政子と頼朝が夫婦となる
1177年頃に姉の政子と頼朝が夫婦となりました。時政はもともと結婚に反対でしたが、最終的に結婚を認めています。時政が平氏政権が長く続かない事を見越していた、単に政子の熱意に押された等、時政の真意は不明です。
頼朝の挙兵に従う
1180年4月に皇族の以仁王が平家打倒の令旨を全国に発布。伊豆にいる頼朝にも届きます。様々な経緯を経て8月には頼朝は挙兵し、伊豆国目代山木兼隆を襲撃します。
この時に時政と宗時、義時は頼朝の挙兵に従っています。頼朝は山木の殺害には成功するものの、続く石橋山の戦いで大敗し、命からがら逃げ出しました。時政・義時も生き残るものの、兄の宗時が戦死しました。
1180〜1182年 – 17〜19歳「頼朝の信頼を得る」
頼朝の有力御家人となる
石橋山の戦いで生き延びた頼朝は態勢を立て直し、やがて東国一帯に大きな権限を持つようになります。義弟の立場である義時は頼朝からの信頼も厚く、1181年4月には頼朝の寝所を警護する11名に選ばれました。
当時頼朝に仕える武士は「門葉(源氏の血縁)」「一般御家人」「家子(門葉と一般御家人の中間)」の位置付けでした。義時の評価は「家子の専一」であり、源氏に次ぐ信頼を得ていたのです。
亀の前事件
1182年に政子が、頼朝の愛妾・亀の前に嫉妬し亀の前の住む家を破壊します。政子は「時政の再婚相手の牧の方の父親・牧宗親」に家の破壊を命じました。頼朝は牧宗親に激怒し、宗親の髻を切って辱めています。
この時、頼朝の横暴な振る舞いに時政は激怒し、一族を連れて伊豆へ立ち退いてしまいます。ただ義時だけは、頼朝に従い鎌倉に残ったとされ、頼朝から賞賛されました。
なお、亀の前事件の顛末については、吾妻鏡が欠文の為に不明です。ただ時政と頼朝は一枚岩ではなかったと共に、義時は頼朝から信頼されていた事が分かります。
1182〜1192年 – 19〜29歳「鎌倉幕府の誕生」
治承・寿永の乱に参戦
亀の前事件以降も義時は、葦屋浦の戦いや奥州合戦に参加する等の活躍を続けました。やがて平家は壇ノ浦の戦いで滅び、頼朝による武家政権である鎌倉幕府は、1189〜1192年頃から本格的に影響力を持ち始めました。
微笑ましいエピソードも
1191年頃に義時は比企朝宗の息女・姫の前に一目惚れをし、1年に渡り恋文を送っています。ただ比企氏は北条家よりもずっと身分が高い家柄である為、義時はずっと無視されていたそうです。
見かねた頼朝が、義時に「絶対に離縁致しません」という起請文を書かせて2人の仲を取りもちました。姫の前は義時の正室となり、2男1女にも恵まれています。
この頃の義時は頼朝の信頼こそあれど、幕府の中で目立つ存在ではありませんでした。
1192〜1199年 – 29〜36歳「頼朝の死と十三人の合議制」
頼朝の死
1198年12月に頼朝は相模川で行われた橋供養の帰路で落馬。翌月に亡くなりました。次の将軍は嫡男の頼家が就任します。ただ頼家が慣例を無視する行動が目立った為、頼家が直に政治をする事は禁止されました。
なお頼朝の死については不可解な点も多く、北条氏による暗殺説もありますが真偽は不明です。
頼朝亡き後には、有力御家人とされる13人による合議制で物事が決められるようになりました。メンバーは以下の通りです。
- 文官としては4人
- 大江広元
- 中原親能(広元の兄)
- 三善康信
- 二階堂行政
- 武将としては9人
- 北条時政
- 北条義時
- 三浦義澄
- 八田知家
- 和田義盛
- 比企能員
- 安達盛長
- 足立遠元
- 梶原景時
ただ皆さんの予想通り、やがて彼らの中で凄惨な政略争いが起こるのです。
源頼朝の死因とは?落馬は本当?暗殺説や吾妻鏡に記述がない理由も解説
1199〜1200年 – 36〜37歳「梶原景時の変」
梶原景時の変
最初に粛清されたのが頼朝の第一の腹心だった梶原景時です。景時は侍所という「御家人の統率や警察の仕事」を担当し、周囲から恨まれやすい立場にありました。
1199年11月に景時は御家人66人による連判状により幕府から追放され、翌年に一族もろとも相模国の飯田家義らに滅ぼされました(梶原景時の変)。
この件に時政や義時は関与していないとされますが、連判状の発端は義時の妹の阿波局でした。関与があった可能性は捨てきれず、更なる研究が必要と言われています。
三浦義澄・安達盛長の病没
梶原景時の変が起きた1200年には三浦義澄・安達盛長が病没します。彼らは1120〜30年代の生まれであり、頼朝挙兵の頃からの腹心の御家人でした。
彼らの子は鎌倉幕府でも重用されますが、十三人の合議制のメンバーではありません。発足から僅か1年で合議制は事実上解体したのです。