北条義時とはどんな人?年表まとめ【家系図や執権政治、承久の乱について紹介】

北条義時の家系図は?北条政子や源頼朝との関係性

北条義時と政子・頼朝の関係図

北条氏は伊豆出身の地方豪族であり、桓武平氏の出身である平直方を祖としていますが、近年では疑問視もされています。家系図において確実視されているのは、義時の3世代前からです(時家-時方-時政-義時…となります)。

義時の父である時政は、伊豆に流罪となった源頼朝の監視役でした。長女の政子は頼朝と結婚し、頼朝が挙兵した際に時政も呼応しています。政子は義時の6歳上の姉であり、頼朝は義兄です。その他時政には15人程の子がいました。

北条義時の家系図(番号は歴代の執権)

義時は側室を含め何人か妻がいるものの、不明な点も多いです。

  • 阿波局:三代目執権となる長男・泰時を産む。詳しい消息は不明。
  • 姫の前:正妻であり頼朝の大倉御所に勤める女官で。次男・朝時と三男・重時を産む。
  • 伊佐朝政の娘:四男・有時を産む。
  • 伊賀の方:姫の前と離別後に継妻となる。五男・政村と六男・実泰を産む。

彼女らは男子の他に6人の女子を産み、幕府の御家人のもとに嫁ぎました。彼女達は名前も分からず、生涯については不明です。

先程説明した「得宗」は長男・泰時が継承。後に御成敗式目を制定した事で有名ですね。次男・朝時から六男・実泰はそれぞれの流派を立ち上げて分家。彼らも幕府における要職に就任し、時には執権に就く者も現れました。

庶子で終わるはずだった人生

北条義時屋敷跡(江間公園)
出典:鎌倉手帳

北条義時は、初代執権北条時政の息子ではありますが、嫡男ではありません。時政は義時に江間という土地を与えていました。そのため義時は「江間殿」と呼ばれており、北条家の庶家である江間家の初代として過ごしていたのです。

北条宗時の墓(静岡県田方郡函南町大竹)
出典:staynavi

時政の嫡男だった北条宗時が石橋山の戦いという源平合戦で戦死した後も、時政は義時を庶子のまま扱いました。頼朝の乳母である比企氏の血を引く義時の次男・朝時(ともとき)や、時政が寵愛した牧の方の産んだ政範を後継者にしようと考えていたようです。

北条義時と源頼朝は近くに埋葬され、現在は白旗神社となっている。
出典:文化遺産オンライン

ただ、義時は源頼朝の「家子」という親衛隊長のような役割を果たしていました。しかも「家子専一」と呼ばれ、頼朝の側近の中でも一番能力があると評価されていました。頼朝には実力を買われながらも、父には最後まで認められない息子だったのです。

北条義時の墓所

現在、北条義時の墓は2つあります。一つ目が神奈川県鎌倉市雪ノ下にある法華堂跡です。法華堂とは、源頼朝と北条義時の冥福を祈るために建てられたものでした。

史跡法華堂跡(北条義時の墓)
出典: 鎌倉トリップ

義時の墓があったとされる法華堂跡には現在は何もありませんが、鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に、頼朝の葬られた法華堂の東の山を義時の墳墓としたと記載されており、2005年に発掘調査が行われ、地下に遺構があるとわかりました。現在は北条義時の墓として国指定史跡となっています。

北条義時夫妻の墓(北條寺)
出典:4travel

二つ目は、静岡県伊豆の国市にある、義時が創建した北條寺です。妻である伊賀の方の墓とともに並んでいます。北條寺のある場所は義時の生まれ育った江間という場所近くにあたり、息子の泰時が、ここを北条氏発祥の地として追善のために義時の墓を建てたと考えられています。

北条義時の功績

功績1「武家中心の政権を作った」

源頼朝は娘の大姫を入内させようと考えていたが、大姫の死によって成立しなかった。
出典:wikipedia

源頼朝は、日本で初めて幕府を開いた武将です。しかし頼朝は、鎌倉幕府を朝廷の上に立つ存在にしたいといった考えはなく、朝廷の力を借りない単独の武家政権を目指そうといった意思もありませんでした。

承久記絵巻
出典: 日本経済新聞

しかし義時は、承久の乱で勝利したことで、鎌倉幕府を朝廷より優位に置くことに成功します。皇位継承者の決定にまで口を挟める地位に立ち、義時によって名実ともに武家政権の誕生となったのです。これは武家と朝廷の力関係が逆転した、日本史上でも特別な転換点と言われています。

功績2「平家追討や奥州合戦に参戦し、頼朝から絶大なる信頼を得る」

源頼朝(足利義直説あり)

義時の活躍は執権政治の確立に留まらず、鎌倉幕府創設前に遡ります。1180年に頼朝が挙兵した時に義時は時政と共に従っています。1185年には頼朝の弟である源範頼の兵に従軍し、葦屋浦の戦いで武功を挙げました。

1189年には治承・寿永の乱の最後の戦いである奥州合戦にも参戦し、無事に勝利。義時は頼朝の側近として絶大な信頼を得ています。1190年に頼朝が後白河法皇との駆け引きの為に上洛した時には、行列の先頭の役を務めました。

頼朝は「義時は我が子孫を支える存在になる」と周囲に話していたそうです。前述した「姫の前」は比類なき美貌の女官で頼朝のお気に入りでしたが、頼朝は義時と姫の前の婚姻に奔走する等、苦労を惜しみませんでした。

結論から言えば頼朝は謎の死を遂げると共に、義時ら北条氏は傀儡として歴代の将軍達を支えます。頼朝の言葉は事実であり間違いだったと言えるでしょう。

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