北条義時とはどんな人?年表まとめ【家系図や執権政治、承久の乱について紹介】

1200〜1203年 – 36〜40歳「比企能員の変」

比企能員邸跡

北条時政と比企能員の対立

続いて粛清の対象になったのは比企能員です。

頼家の妻の若狭局は比企能員の娘であり、時政は頼家の外祖父という立場でした。両者は「頼家の血縁」という立場から権勢を振るうと共に、対立を深めていきました。

当時の頼家は外祖父の時政と距離を置き、比企氏との関係を強めていました。更に頼家は若狭局との間に一幡という男子を授かっています。時政は、一幡が次期将軍になれば比企氏の権力は増大し、北条氏が粛清されると考えました。

比企能員の変

1203年9月に比企能員は時政により謀殺され、比企一族は一幡の邸である小御所に立てこもります。すると時政の命により、義時を総大将とした軍勢が小御所を襲撃。一幡(当時5歳)も義時の郎党に刺し殺されます。

義時は比企能員の変では時政の指示通りに働いています。義時の正妻の姫の前は比企一族だった事を覚えていますか?義時は妻の実家を襲撃した事になり、姫の前は変の直後に離別したとされます。

比企能員の変後に頼家は将軍職を廃され出家。次期将軍は時政の外祖父である実朝でした。この時点で時政は執権に就任し、幕府の中で圧倒的な権限を持つのです。ちなみに頼家は翌年に凄惨な最後を遂げています。

1204〜1205年 – 41〜43歳「牧氏事件による時政の失脚」

時政により滅ぼされた畑中重忠(彼は坂東武士の鑑と称された)

畠山重忠の乱

時政は権力を掌握すると共に、横暴な振る舞いが目立ちます。その背後には時政の後妻・牧の方の影響がありました。時政は牧の方に言われるがまま、幕府で人望のあった畠山重忠の殺害を計画したとされます。

この時に殺害を命じられたのは義時であり、義時は時政の命令に逆らえずに、武蔵国二俣川で重忠を討ちました。ただ時政と牧の方に対する幕府内の不満は徐々に高まっていきました。

牧氏事件

1205年7月に時政と牧の方は実朝を廃して、新たに頼朝の猶子である平賀朝雅を新将軍として擁立する事を計画します。我慢のならなくなった義時・政子は実朝を自分の屋敷に保護し、時政に対抗しました。

結果的に多くの御家人が時政・牧の方を見限り、義時・政子に着きました。時政は失脚し伊豆国に幽閉され、平賀朝雅は義時により暗殺されました。義時は時政の代わりに二代目執権となり、権勢を極めていきます。

1205〜1213年 – 43〜50歳「和田合戦による和田一族の失脚」

和田合戦図

高圧的な執権体制を改める

二代目執権に就任した義時は、時政のような高圧的な執権体制を改めます。御家人の要望を聞き「所領は大罪を犯した場合以外は一切没収しない」という大原則を明示しました。

一方で北条執権体制の障害になりそうな有力御家人の排除は続きます。次に狙われたのは、幕府発足以来、北条氏に協力的だった和田義盛でした。

和田合戦

1213年に和田義盛は義時の度重なる挑発を受け、三浦義村(三浦義澄の嫡男)らと挙兵を計画。しかし三浦義村は北条側に寝返り、兵力が足りないまま和田一族は将軍御所を襲撃。和田氏は敗北し、一族の多くは殺害されました。

1213〜1219年 – 50〜56歳「実朝の暗殺」

源実朝

有力御家人は軒並み粛清

和田合戦を経て北条氏の障害になりそうな有力御家人は軒並み粛清されました。残ったのは大江広元や三浦義村等の文官や、北条氏に忠誠を誓う者ばかりとなるのです。

実朝が公暁により暗殺される

1219年に三代目将軍だった源実朝が、頼家の遺児の公暁に暗殺されます。義時が関与していた可能性がある事は、### 都市伝説・武勇伝1「源実朝の暗殺に関与?不審な点の多すぎる事件の顛末」で紹介した通りです。

死の前年から実朝の後継者として後鳥羽上皇の親王を次期将軍に擁立する動きがあり、政子が朝廷と交渉にあたっていました。結果的に後継者は決まらぬまま実朝は暗殺されています。

この時点では頼朝の異母弟の阿野時元や、頼家の遺児の禅暁等、源氏の血を引く生き残りは存命でした。仮に彼らが将軍になれば北条氏の権勢は失墜する為、義時は討手を派遣し、彼らを粛清していきました。

1219〜1221年 – 56〜58歳「藤原頼経を将軍に擁立する」

藤原頼経

尼将軍の誕生

暗殺された実朝は貴族的な性格の人物で、後鳥羽上皇との仲も悪くありませんでした。しかし実朝が暗殺される事で仲介人となる存在がいなくなり、幕府と朝廷との仲は悪くなります。

後鳥羽上皇は親王を次期将軍に擁立する事を拒絶。義時や政子も構想を修正し、頼朝の遠い縁戚の藤原摂関家の藤原頼経を将軍に擁立します。

藤原頼経はまだ1歳半だった為、政子が尼将軍として将軍家の地位を代行し、義時がそれを補佐するという形で新たな執権政治を確立していきます。

後鳥羽上皇との対立

なんとか執権政治は継続するものの、幕府と朝廷の仲は急激に悪くなりました。後鳥羽上皇は息子の順徳上皇と、武家政権の打倒と日本全土の統治回復を目指すべく画策。2年後にあの「承久の乱」が勃発したのです。

1221〜1223年 – 58〜60歳「承久の乱」

後鳥羽上皇

承久の乱勃発

1221年5月に後鳥羽上皇は承久の乱を起こします。詳しくは### 後鳥羽上皇に勝利した承久の乱で述べた通りです。天皇の権威は未だに大きかったものの、北条政子の演説の影響は大きく、幕府は圧倒的勝利を収めました。

承久の乱を経て義時は朝廷の監視として六波羅探題を設置。更に京にある貴族・武士達の所領30,000ヵ所を全て没収しました。義時は有力御家人、将軍家、ついには朝廷も支配下に置く事で盤石の政治運営を行ったのです。

1224年 – 61歳「義時死去」

北条義時の墓

突然の死

1224年に入っても義時は健康長寿の為に泰山君府祭を行う等、精力的に活動を続けていました。しかし義時は6月12日に持病の脚気と霍乱(当時の急性腸炎のようなもの)を併発。容体は悪化し、義時は自らの死を悟ります。

義時は6月13日未明に出家。繰り返し念仏を唱えたまま、合掌をしたまま亡くなりました。

立派すぎる最期?

義時の最期の様子は吾妻鏡に書かれているものです。非常に立派ではあるものの、脚気と霍乱を併発したまま、念仏を死ぬ直前まで唱えられるのかは疑問が残ります。

前述した通り、義時もまた暗殺説が囁かれている人物です。死の真相は未だに分からない事も多いのですね。

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