北条義時とはどんな人?年表まとめ【家系図や執権政治、承久の乱について紹介】

功績3「承久の乱後に六波羅探題を設置する」

六波羅探題府跡

義時は承久の乱の後、京都の朝廷の動きを監視・制御する為に、鎌倉幕府の出先機関である「六波羅探題」を設立しました。六波羅とは地名を指し、旧平清盛邸を拠点として六波羅の北と南に配置されました。

京都から鎌倉まで450kmも離れており、朝廷側が不審な動きをしても、軍を派遣するには時間がかかります。その為六波羅探題には軍事指揮権も持たされており、北条氏の有力者が配置されました。

最初に六波羅探題に配置されたのは、義時の息子の泰時と弟の時房でした。彼らは承久の乱の後処理と、西国の御家人の監視と再編成を断行しています。

義時の構想により「東の幕府」と「西の六波羅探題」が生まれ、鎌倉幕府は全国的な支配勢力を確立。後に後醍醐天皇が倒幕を企てた時、1度目は六波羅探題がそれを察知し事前に争いを防いでいます。

六波羅探題は1333年に足利高氏(尊氏)が滅ぼすまで、その役割を全うしたのです。

功績4「 2022年の大河ドラマの主役に抜擢される」

義時を演じる小栗旬

2022年の大河ドラマは義時が主人公となっており、タイトルは「鎌倉殿の13人」。真田丸を手がけた三谷幸喜が脚本と原案を担当し、小栗旬が義時を演じます。タイトルは頼朝亡き後に定めされた「十三人の合議制」が由来です。

幕末や戦国が描かれやすい大河ドラマにおいて平安後期〜鎌倉時代が題材になる事は珍しく、2012年の「平清盛」以来10年ぶり。義時が主要人物となるのは、実に源頼朝が主役の「草燃える」から数えて43ぶりです。

義時が主役に選ばれたのは、治承・寿永の乱から承久の乱に至る、歴史の場面に立ち会った事も要因でしょう。義時が主役になる事でマイナーな鎌倉時代にスポットライトが当たる事は間違いありません。

義時がその時代を生き延びて、大河ドラマの主役になる事自体が大きな功績と言えるでしょう。

北条義時の名言

一人も残らず殲滅せよ。山狩りをしても召し捕れ。敵を掃蕩せずに功を急いで京を攻め上ろうとするな。

承久の乱で義時が発した指令です。血気盛んな御家人を鼓舞しつつ、焦って京に攻め入る事は制止してきます。義時の冷静さと最高権力者としての資質がよく分かる名言ですね。

北条義時にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「源実朝の暗殺に関与?不審な点の多すぎる事件の顛末」

公暁が実朝を暗殺する場面(以前は”くぎょう”だったが現在では”こうぎょう”だったとも言われている)

1219年に鶴岡八幡宮で参拝の儀式の際に、三代目将軍の実朝は頼家の子である公暁に暗殺されます。結果的に頼朝の嫡流は途絶えます。実朝暗殺事件の黒幕は義時だったとも言われています。

  • 参拝の際に義時は実朝の太刀を持つ役だったが、体調不良によりその役を源仲章が急遽担った。
  • 源仲章は実朝と共に暗殺されている。
  • 実朝暗殺後は摂関家から藤原頼経が四代目将軍に就任、義時が実権として実権を握る。

その他の説として、①三浦義村ら御家人説、②後鳥羽上皇説、③公暁個人の野心説等があります。他には時は事件の現場にいながら暗殺を止める事が出来なかった為、吾妻鏡が誤魔化して嘘を書いたという説もあります。

義時は命拾いすると共に、更に権勢を強めていきます。いずれにせよ実朝暗殺により最も利を得たのが義時だった事は間違いない為、黒幕説は根強く残っているのです。

都市伝説・武勇伝2「承久の乱から3年後に急死?暗殺説もある最期とは?」

吾妻鏡の序文

義時は承久の乱から3年後である、1224年の6月に死去しています。鎌倉幕府の公式書物である吾妻鏡によると死因は「脚気」ですが、あまりに急な死から当初から暗殺説が囁かれていました。

三代目の執権は、嫡男の泰時が就任する予定でした。しかし義時死去後に継室の伊賀の方が五男の政村を執権に擁立しようと画策して失敗し、その一派が伊豆に流罪になる事件が起きています(伊賀の方は4ヶ月後に死去)。

それから3年後、承久の乱の首謀者でありずっと潜伏していた尊長が捕縛。彼は取り調べの際に以下の事を言い、武士達を驚愕させています。

早く首を切れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ

つまり尊長は義時が継室の伊賀の方に毒殺されたと主張したのですね。このやり取りは藤原定家の日記である「明月記」に残されています。その他、「保暦間記」には義時は近習の小侍に刺し殺されたと書かれています。

実朝暗殺の顛末も含め、義時は様々な暗殺事件に手を染めていたとされます。仮に義時が暗殺されていたのなら、因果応報とも言える結果です。いつか謎が解明されると良いですね。

都市伝説・武勇伝3「北条義時は明治時代に大悪人と思われていた」

北条高時をテーマにした歌舞伎「北条高時と天狗(月岡芳年画)」

義時は尊皇信仰が厚かった明治時代においては、同情の余地のない大悪人と評されてきました。何故なら義時は3人の上皇を島流しにした上、六波羅探題を設置して朝廷を監視したからです。

更に実朝暗殺事件にも関わっている可能性もある他、藤原頼経を傀儡にし、父の時政を追放した事も義時の評価を下げています。目上の人物をないがしろにする事は儒学においても不忠とみなされてしまうのです。

泰時や元寇で活躍した時宗を除き、歴代の執権達は大半が良い描かれ方をされていません。鎌倉幕府滅亡に関与したとされる北条高時なども「北条九代名家功」という歌舞伎で無能な人物という描写がされました。

太平洋戦争が終わり、天皇についてのタブーが少しずつ解禁されるにつれて義時の客観的な研究も進んできました。ただ明治期のイメージを引きずって「大悪人」という印象を拭えていないのもまた事実なのです。

義時の評価が定まってくるのは、もう少し後なのかもしれませんね。

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