明治天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や家系図、偉大な功績やすり替え説、死因についても解説】

明治天皇は幕末から明治にかけて在位していた第122代天皇です。薩長を中心とした倒幕派は1868年に明治政府を樹立し、明治天皇を中心とした国家体制を築き上げます。明治時代から一世一元の制が導入された他、明治維新による諸々の諸改革は明治天皇が発した詔により正式なものとなりました。

明治時代を経て日本は大日本帝国憲法の制定を行い、日清戦争・日露戦争に勝利する等して近代国家となり、列強の仲間入りを果たします。明治天皇は「偉大なる君主」として、日本国民だけではなく世界中から尊敬と畏敬の念を持たれたのでした。近代国家の設立において、明治天皇の功績は計り知れないものがあります。

1873年頃の明治天皇

象徴として君臨した明治天皇ですが、その生涯や功績については知らない人も多いのではないでしょうか?明治天皇は最初から「偉大なる君主」だったのではありません。明治政府の首脳達と二人三脚で様々な政局を乗り切った「苦悩する君主」でもありました。

君主でありながら質素倹約を常とし、一方では茶目っ気のある性格だった明治天皇。幕末から明治を経て性格も大きく変わった事から、すり替え説も根強く存在します。明治天皇の生涯を知る事は近代国家の創設だけでなく、日本の暗部にも触れる事になるのです。

今回は幕末や明治維新を学ぶうちに明治天皇の事を敬愛するようになり、明治神宮まで足を運んだ筆者が、明治天皇の生涯について解説します。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

明治天皇とはどんな人物か

名前明治天皇 (諡は睦仁・称号は祐宮)
生誕日嘉永5年9月22日(1852年11月3日)
崩御日明治45年(1912年7月29日)
生地中山忠能邸(京都市上京区)
没地明治宮殿(東京都千代田区)
配偶者一条美子(昭憲皇太后) 側室が5人
埋葬場所伏見桃山陵(京都市伏見区)

明治天皇の生涯をダイジェスト

岐阜公園にある明治天皇像

明治天皇の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1852年 0歳 生誕
  • 1860年 9歳 親王宣下 睦仁の諱名を賜る
  • 1867年 16歳 践祚 大政奉還と王政復古の大号令
  • 1868年 17歳 即位 諸改革が行われる
  • 1873年 22歳 明治6年の政変
  • 1877年 26歳 西南戦争
  • 1881年 30歳 国会開設の勅諭を発する
  • 1885年 34歳 内閣制度発足
  • 1889年 38歳 大日本帝国憲法公布
  • 1894年 43歳 日清戦争
  • 1904年 53歳 日露戦争
  • 1911年 60歳 不平等条約の改正を完了
  • 1912年 61歳 糖尿病に伴う尿崩症で崩御

近代国家日本の指導者・象徴として国民から畏敬されていた

明治天皇の東京行幸の様子

幕末の日本では黒船襲来や徳川幕府の求心力の低下等に伴い尊王攘夷(君主を尊び、外敵を斥ける考え)運動が起こります。明治政府が発足した時、政府は「天皇が近代国家の君主として統治する体制」を作りました。

政府首脳達は明治天皇が旧来の公家的な素養を持つ天皇ではなく、国の君主に相応しい教養や風格を持った天皇になる事を望みます。明治天皇もそれを望み、乗馬や陸海軍の閲兵、様々な語学や歴史を学びました。

更に西洋文明を国民に啓蒙する為、髷を切り、洋服や洋食を取り入れていきました。明治天皇の努力は身を結び、明治天皇は君主としての素養と風格を身につけます。そんな経緯もあり、明治天皇は国内外から畏敬されるようになります。

1870年に天皇の絶対化を目的とした大教宣布詔の発布、1890年には天皇陛下に忠義を尽くす事を目的とした教育勅語が発布され、国民に対する神格化や絶対化は進められていきました。

明治天皇が崩御した時、イギリスやアメリカは当然の事、世界の裏側のブラジル、更には敵対していた中国やロシアからも哀悼の言葉が寄せられます。40年に渡る在位の末、明治天皇は世界規模で尊敬を集めるようになるのです。

明治天皇の正妻や側室は?家系図から分かる今上天皇との関係性

1889年頃の一条美子

明治天皇には1人の皇后(正妃)の他に4人の典侍(女官であり側室的な立場となる)がいました。明治天皇は彼女達との間に5男10女をもうけるものの、多くが夭折し、成人したのが1男4女となっています。

  • 一条美子:1869年に正妻となる。明治天皇崩御後に昭憲皇太后と追号される。
  • 葉室光子:1872年に典侍となる。第一皇子・稚瑞照彦尊を授かるが死産であり、光子も4日後に急逝。
  • 橋本夏子:1872年に典侍となる。第一皇女・稚高依姫尊を授かるが死産であり、夏子も翌日に急逝。
  • 柳原愛子:1873年に権典侍となる。後の大正天皇を授かる。一男一女は夭折。
  • 千種任子:二女を授かるが夭折。
  • 園祥子:二男五女を授かり、四人の皇女が成人する。

明治天皇の時代はまだ乳幼児の死亡率が極めて高かった事が分かります。後に大正天皇となる嘉仁親王も、幼少期に何度も大病を患うものの、なんとか回復して成人となりました。

明治天皇の家系図

大正天皇は成人した後、貞明皇后との間に4人の皇男子を儲けます。第一皇子が裕仁親王であり、後の昭和天皇になります。その血筋は昭和天皇→現在の昭仁上皇(平成時代)→今上天皇(令和時代)と現在にまで繋がります。

明治維新を迎えた時、欧米列強はキリスト教の価値観に則り一夫一妻でした。明治天皇は一夫多妻制だった最後の天皇だったのです。ただ側室が大正天皇を授かった事から、側室という制度は意義があったのかもしれません。

余談ですが明治天皇や大正天皇という名前は死後に贈られる諡です。その為、上皇や今上天皇には平成や令和という名前はつきません。存命の天皇や上皇に年号をつけて呼ぶのは、失礼に値するので注意が必要です。

明治天皇の死因は?糖尿病から来る尿崩症で崩御される

明治天皇崩御を伝える新聞

明治天皇は1912年7月29日に糖尿病に伴う尿崩症で崩御します。明治天皇は1904年に糖尿病と診断され、徐々に身体を蝕んでいたのです。明治天皇が高熱で倒れたのは7月19日でしたが、数日前から傾眠等の症状が見られていました。

当時の宮中は「病や死等の穢れを日常生活に持ち込めない」という慣例がありました。明治天皇は寝室で静養が出来ず、「常の御座所」という居間が臨時の病室となったのです。看護出来る女官も身分による制限がありました。

明治天皇は大の西洋医嫌いであり、重症になるまで注射等の治療は行われていません。28日に痙攣等の症状が見られた時、一条美子の許可でようやく一連の西洋医学が導入されています。

29日22時半頃になり、皇后・皇太子・同妃・各内親王が病室に集められました。明治天皇は何か低く呟いたものの、その後は何も発せずに22時43分に崩御しました。

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