明治天皇の年表
1852〜1857年 – 0〜5歳「祐宮生誕」
祐宮(さちのみや)生誕
明治天皇は嘉永5年(1852年)に孝明天皇の第二皇子として生誕。幼名を祐宮と言い、孝明天皇の祖父・光格天皇の幼名でした。光格天皇は朝廷権威の向上に努めた人物で、孝明天皇は偉大な祖父にあやかろうとしたのです。
京都御所に移り住む
祐宮は天皇家の慣例に従い、4歳まで生母・中山慶子の実家で育てられます。幼少期の祐宮は玩具の木馬を廊下で走り回す等、活発に遊んでいました。
安政3年(1856年)に祐宮は孝明天皇の住む京都御所に移り住みます。孝明天皇の第一皇子は既に薨去して祐宮は時期天皇として養育されました。この頃は和歌や習字等、公家的な教育が中心です。
ちなみに祐宮が初めて和歌を詠んだのは翌年の事で、以下のものが伝わっています。
月見れば 雁が飛んでゐる 水の中にも映るなりけり
この頃の祐宮の和歌は後の道歌ではなく、叙情的な要素も多分に含まれていたのです。
1858〜1864年 – 6〜13歳「親王宣下し、睦仁(むつひと)の名を賜る」
親王宣下を受ける
万延元年(1860年)に祐宮は皇族男子最高位の称号・親王の地位を与えられます。更に睦仁の諱名を賜り、祐宮ではなく睦仁親王と呼ばれるようになりました。
禁門の変に巻き込まれる
元治元年(1864年)には急進的な尊王攘夷(君主を尊び、夷狄を打ち払うという考え)思想を持つ長州藩の志士達が、京都の市街地で薩摩・会津・桑名藩の連合軍と武力衝突を起こす禁門の変が起こります。
この時に睦仁親王の住む京都御所に、不審者が300人程侵入する事態も起きました。この時に睦仁親王は卒倒したとも伝えられています。この頃の睦仁親王は「偉大なる君主」ではなく、あどけない少年だったのです。
1865〜1868年 – 14〜17歳「孝明天皇の崩御に伴い践祚する」
孝明天皇崩御
慶応2年(1867年)12月25日に睦仁親王の父・孝明天皇が宝算37で崩御。睦仁親王は慶応3年(1867年)1月9日に君主の位を受け継ぐ践祚を行い、天皇となりました。ただ幼い事もあり政務は摂政の二条斉敬が行なっています。
大政奉還と王政復古の大号令
同年10月14日に15代将軍・徳川慶喜は朝廷に政権を返納する「大政奉還」を奏上。翌日に明治天皇は奏上を勅許し、政権は朝廷に返されます。慶喜が大政奉還を決断したのは、薩長による倒幕運動を回避する目的がありました。
岩倉具視や倒幕派の志士達は、大政奉還による政権返納を納得せず、12月9日に王政復古の文案を明治天皇に奏上。明治天皇は御学問所にて大名達に王政復古を宣言し、徳川幕府に変わる新たな新政府の樹立を宣言しました。
翌年の慶応4年(1868年)1月3日に新政府軍と旧幕府軍による鳥羽伏見の戦いが勃発。明治天皇は新政府軍に官軍の証明となる御旗と節刀を与えました。
鳥羽伏見の戦いの戦いは新政府軍の勝利に終わります。その後も新政府軍との戦争は戊辰戦争として翌年に渡り続きますが、明治天皇や新政府達は新たな政治システムを作る為、次々と政策を打ち出して行きました。
1868年 – 17歳「即位の礼が執り行われる」
即位の礼
鳥羽伏見の戦いが終わった1月15日、明治天皇は元服。8月27日に、皇位を継承した事を国内外に示す「即位の礼」が執り行われました。皇位を世界に示す為、式典に地球儀を用いる等の試みも行われています。
様々な政策が同時に行われる。
なお明治政府は即位の礼だけでなく同時進行で様々な政策を打ち出しました。一連の政策は明治天皇の親政によるものとされ、明治天皇の詔勅により正式なものとなります。この頃の政策は以下の通りです。
- 2月〜3月:外国人公使と相次いで引見
- 3月14日:明治政府の基本方針を示した五箇条の御誓文を提示
- 潤4月11日:明治初期の政治大綱である政体書を提示
- 8月27日:即位の礼
- 9月8日:一世一元の制が定められ、明治と改元される
- 10月13日:江戸に行幸し、江戸を東京に改称
めまぐるしい日々だったものの、明治天皇は日本の君主に相応しい存在になる為、毎日勉強に励んでいたそうです。また年末の12月28日に一条美子を皇后に立てています。
1869〜1870年 – 18〜19歳「東京奠都と大教宣布詔」
京都から東京へ
新政府樹立後も明治天皇は京都にいたものの、政治の場であった江戸とは距離が離れていました。また旧来の公家勢力からの干渉を防ぐ為、大久保利通や木戸孝允達は明治天皇が東京に常駐する事を望みます。
明治2年(1869年)3月28日に明治天皇は東京に移り、それ以降は東京での居住を続けました。明治天皇と新政府軍の距離が近くなる事で、両者はより親密に政策を進めていく事になります。
大教宣布詔
明治3年(1870年)1月3日には大教宣布詔が明治天皇から発令され、天皇の絶対化が推し進められます。明治政府は明治天皇に対して国家の元首に相応しい存在になる事を望み、明治天皇もそれを受け入れました。
明治政府は宮中改革に着手。明治天皇の側近は公家出身者ではなく、士族出身者が占めるようになります。更に国民の規範となる為に、洋食や洋装を取り入れるようになったのもこの頃からでした。
1871〜1878年 – 20〜27歳「明治六年の政変と西南戦争」
明治六年の政変
明治6年(1873年)には欧米視察に行った岩倉使節団一行と国内に残った留守政府は、朝鮮に対する外交問題で対立。明治天皇は征韓に反対だった岩倉達の指示のもと、勅旨を出して西郷の朝鮮派遣を決定しています。
ただこの決断は、西郷隆盛や板垣退助等の重鎮達が政府から下野するきっかけを作りました。明治天皇はかねてから西郷隆盛の事をとても敬愛しており、西郷の辞職は大きなショックだったと伝わっています。
西南戦争
やがて日本では士族による反乱が頻発。明治10年(1877年)1月には鹿児島で西郷を盟主とした西南戦争が勃発します。明治天皇は2月には征討の詔を発布し、反乱軍の制圧を指示しました。
明治天皇は立場的に西郷の討伐を指示せざるを得なかったものの、西郷への思いは最後まで変わりませんでした。西郷が自刃した翌日の9月24日に、明治天皇は皇后に「西郷隆盛」を勅題にした歌を謡う事を命じています。
ちなみに皇后の和歌は以下のものでした。
薩摩潟 しづみし波の 浅からぬ はじめ違ひ 末のあはれさ
西南戦争を経て明治天皇は君主としての自覚をより持つようになり、臣下の者と談笑の時間を設けるようになりました。天皇は西郷のような反乱が起きないよう、心を開いて語る場が必要と考えたのです。