1878〜1883年 – 27〜31歳「国会開設の詔を発布」
明治十四年の政変
西南戦争を経て、国内では自由民権運動が盛り上がりを見せました。明治政府は明治天皇を通じて、明治14年(1881年)に、国会開設や憲法制定を10年以内に行うという国会開設の詔を発布します。
更に明治15年(1882年)には、陸海軍の軍人の精神的支柱を確立する事を目的とした軍人勅諭も下賜されました。
天皇親政を放棄
1880年頃から明治天皇は君主の自覚に目覚め、本来の意味での天皇親政を志していました。この頃の明治天皇は「薩長土肥の人物」が要職を占める事に苦言を示す等、政治の場面にも意見をしています。
ただこの頃は自由民権運動が勃興し、内閣や憲法等が形作られた時代です。明治天皇は伊藤博文達と話し合い、「天皇は君主として君臨するが、議会政治で政策が決められる「国会優位の議院内閣制」に理解を示していくのです。
1883〜1893年 – 31〜41歳「内閣制度や憲法の制定」
諸制度を創設
明治18年(1885年)には内閣制度が発足し、初代総理大臣には伊藤博文が任命されます。明治天皇は翌年に機務六条という取り決めを伊藤博文と交わし、天皇親政を事実上放棄しました。
明治22年(1889年)2月11日には明治天皇から「大日本憲法発布の詔勅」が発布され、大日本帝国憲法が国民に公表されました。東アジア初の近代憲法であり、形式的には明治天皇によって作られた欽定憲法の形を取っています。
教育勅語
翌年には近代天皇制国家を作る為、国民の啓蒙を目的とした「教育ニ関スル勅語」が公布されます。勅語は忠君愛国主義と儒教的道徳を規範とし、この頃から教育勅語に基づいた学校教育が行われるようになりました。
議会政治の調整役に
明治23年(1890年)には議会政治が行われ、明治の元勲達と議員は激しく対立。明治天皇は議会政治の場に立つ事はないものの、詔勅を発する等して両者の調停者的役割に徹しています。
1893〜1894年 – 42〜44歳「日清戦争」
日清戦争勃発
明治27年(1894年)に日本は清国と戦争を開始。明治天皇が戦争に反対だった事は、「実は戦争に反対していた?開戦前の明治天皇の真意」で述べた通りです。ただ明治天皇は大本営の指揮に立ち、軍人や国民を鼓舞する役に徹しました。
日清戦争に勝利した後、明治天皇は友好関係回復に関する詔書を公布。更に「日本が勝利に驕慢となり、相手を侮辱せずに友好国の信頼を失う事はしてはならない」と述べました。
帝国主義が当たり前の時代において、明治天皇はあくまでも平和な世界を望んだのです。
1895〜1905年 – 45〜54歳「日露戦争」
日露戦争勃発
明治37年(1904年)には超大国ロシアとの戦争が勃発しました。戦局は熾烈を極め、日本軍の犠牲者は8万人から11万人と言われます。この時も明治天皇は戦争に反対しつつも、再び大本営で指揮を執りました。
明治天皇は日清戦争の時もそうでしたが、戦没者の名前全てに目を通し、その死を偲んだとされます。
ポーツマス条約の締結
日露戦争は東郷平八郎による日本海海戦の勝利もあり、日本が辛勝しました。極東の中小国に過ぎない日本が大国ロシアに勝利した事は世界に衝撃を与えました。
明治維新から30年半ばしか経過していないにもかかわらず、日本は驚異的な近代化を成し遂げていきます。その指導者である明治天皇は国内外から大いなる尊敬を集めるようになったのです。
1906〜1911年 – 55〜60歳「不平等条約の撤廃」
列強の仲間入りを果たす
日露戦争を経て日本は列強の仲間入りを果たします。明治44年(1911年)には、幕末に締結した列強との不平等条約の撤廃に成功。日本は悲願を達成したのです。
晩年も質素な生活を続けた
偉大なる君主と称された明治天皇ですが、晩年に至るまで質素な生活を心がけました。それは国民の規範となる為です。
また厳格な一面だけでなく、茶目っ気のある性格も持ち合わせていました。明治天皇は皇后や女官達を自分が考えたあだ名で呼び、夜は女官達と楽しそうに宴会をする事もありました。
1904年には糖尿病を患った為、日本酒を飲む量は減りました。ただ健康増進の為、ワインを飲む事はあったそうですね。
1912年 – 61歳「明治天皇崩御」
糖尿病の悪化
最晩年の明治天皇は体調の悪化に伴い、歩行も不安定になっていました。明治天皇自身も身体の不調から弱気な発言な発言が増えていきます。
朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい
朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる
最晩年に見せた弱気な発言は、明治天皇が見せた弱さだったのかもしれません。
明治天皇崩御
明治天皇は前述した通り明治45年(1912年)7月29日22時43分に糖尿病に伴う尿崩症で崩御します。当時の規定では、皇位に空白期間があってはならないと定められていました。ただ践祚の儀式を行うにはとても時間が足りません。
その為、明治天皇の崩御の時間は世間的には2時間遅らせた「7月30日0時43分」とされました。7月30日に嘉仁親王(後の大正天皇)は践祚し皇位を継承。年号も大正と定められます。
こうして明治天皇の崩御とともに明治時代は終わりを迎え、新たな時代が始まったのでした。