明治天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や家系図、偉大な功績やすり替え説、死因についても解説】

明治天皇陵と明治神宮の違いは?明治天皇の御霊を祀る場所

明治天皇が埋葬された伏見桃山陵

渋谷には明治神宮があり、毎年大晦日には多くの参列者が訪れます。この地は明治天皇のお墓ではなく、明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする神社です。明治天皇のお墓は京都府伏見区の伏見桃山陵にあります。

9月13日に国葬である大喪の礼が執り行われた後、翌日に明治天皇のご遺体は伏見桃山陵に埋葬されます。明治天皇は東京に居住後は京都に住む事はありませんでした。京都を選んだのは明治天皇の御遺言によるものです。

明治神宮の拝殿

ただ明治天皇が40年近く居住した東京に、明治天皇を象徴するものがないのは残念という声が上がります。実業家・渋沢栄一や当時の東京市長・阪谷芳郎達による有志委員会が発足され、1913年3月に神社の創建が決まりました。

明治神宮は様々な議論を経て1920年に建立されます。社殿は太平洋戦争による空襲で焼失するものの、後に再建しました。2020年に明治神宮は鎮座100年を迎え、毎年お正月には多くの参列者が訪れます。

伏見桃山陵と明治神宮…。それぞれのルーツは違えど、明治天皇を偲んで造られたものに変わりはありません。訪れた時には明治天皇の偉大さを想ってもらえたら幸いですね。

明治天皇の功績

功績1「様々な詔勅を出し、近代国家を明治政府と共に作り上げる」

漸次立憲政体樹立の詔

明治政府は天皇を中心とした国家体制を推し進めましたが、実際のところは一連の政策は明治政府が決めていました。政府が定めた政策を実現する為、明治天皇は様々な詔勅(国家の公文書)を発布していきます。

最初に発布されたのは1868年7月に発布された東京奠都(てんと)の詔でした。その後も1871年に廃藩置県の詔、1875年に段階的に立憲体制を進める事を宣言した漸次立憲政体樹立の詔等、日本の近代化に必要な勅諭を発布します。

詔勅にも種類があり、詔(みことのり)は広く大事を宣布する時に用い、勅諭(ちょくゆ)は諭しや戒めの時に使われます。勅語(ちょくご)は祭祀・喪葬・軍事・外賓・冠婚といった五礼に用いられました。

これらの勅諭は明治天皇という「国の君主」が発令する事で、国民に広く理解、啓蒙されていきます。詔勅の名称や種類に注目する事で、明治政府や明治政府がその勅諭にどんな想いを込めたのが分かる事でしょう。

功績2「天皇親政を放棄!日本における立憲君主制を確立」

大日本帝国憲法発布の様子

明治天皇は即位後に帝王学等を学び、徐々に君主としての自覚に目覚めていきます。1880年代の明治天皇は象徴ではなく「本来の意味での天皇親政」を目標にし、政治的な場面に意見する事もありました。

明治天皇は儒学に強い関心を持ち、明治天皇に仕える宮中勢力も「東洋的な専制君主」としての天皇親政を目指していました。これは「君主は君臨すれども統治せず」という明治政府の構想とは相反するものだったのです。

ただ1880年代は自由民権運動等の民主主義への声が高まり出した時代。明治天皇の掲げた天皇親政は近代国家のあり方には相応しくありません。伊藤博文は明治天皇と長きに渡り立憲君主制について話し合いを重ねています。

明治天皇は内閣の方針を理解し、1886年に「機務六条」を伊藤博文と取り交わします。これは天皇と内閣の関係を規定するものであり、明治天皇が「親政ではなく、立憲君主制」としての立場を受け入れるものでした。

やがて1889年には大日本帝国憲法が発布され、天皇主権等の強い権限が天皇に与えられます。ただ明治天皇はあくまでも国の象徴という立場に徹しました。明治天皇の判断は日本を近代国家へと更に推し進めていくのです。

功績3「日清戦争・日露戦争で指揮! 乃木希典への采配が旅順攻略戦に繋がった 」

明治天皇が指揮を執った大本営

明治後期に日本は日清戦争(1894〜95年)と日露戦争(1904〜05年)という大規模な対外戦争が勃発します。明治天皇は日本軍における大元帥の立場であった為、大本営で直接戦争指導にあたりました。

明治天皇は「兵たちと苦楽を共にする」という信念のもと、暖炉もない殺風景な部屋で立って政務を続けています。そんな明治天皇の名采配が日露戦争における旅順攻略戦でした。

ロシアの要塞である旅順の攻略は難航を極め、多数の死傷者が出ます。国内では陣頭指揮を執った乃木希典陸軍大将の更迭論が浮上しますが、明治天皇は以下のように乃木を庇ったとされます。

それはならぬ。もし途中で代えたら、乃木は生きていないだろう

乃木はその言葉を聞き、気持ちを奮い立たせました。旅順攻略戦は1万5千以上の死者を出すものの、日本側が勝利します。日露戦争で日本が勝利出来たのは、明治天皇と軍人達による深い絆があった事は間違いありません。

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