滝廉太郎とは明治時代に活躍した音楽家(作曲家・演奏家)です。滝が作曲した代表的な曲は「花」「荒城の月」「箱根八里」で、音楽の授業で歌った人も多いでしょう。
滝は日本語の歌詞と西洋音楽のメロディを融合させた楽曲を生み出し、日本の音楽の発展に大きな影響を与えました。私達が好きなアーティストの曲にも、滝の影響は受け継がれています。
そんな滝ですが、結核により23歳の若さでこの世を去りました。
滝は悲劇の人というイメージが強いですが、その生涯については知らない人も多いと思います。滝は小さい頃から歌や楽器に触れていました。そんな小さい頃の体験が、天才音楽家を生み出したのです。他にも音楽学校での微笑ましいエピソードも残されているのです。
今回は音楽の授業で花を聴いてから滝の曲を好きになり、何度も聴き続けた筆者が滝廉太郎の生涯について解説します。
滝廉太郎とはどんな人物か
名前 | 滝廉太郎 |
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誕生日 | 1879年8月24日 |
没日 | 1903年6月29日 |
生地 | 東京市芝区(現・東京都港区) |
没地 | 大分市稲荷町にある自宅 (現・大分県府内町) |
配偶者 | なし |
埋葬場所 | 万寿寺(大分県大分市) |
滝廉太郎の生涯をダイジェスト
- 1879年 0歳 東京市芝区で生まれる
- 1882年 3歳 父の仕事で横浜に転勤 各地を回る
- 1894年 15歳 東京音楽学校に入学 入学して作曲の技術を学ぶ
- 1898年 19歳 東京音楽学校を卒業
- 1900年 21歳 四季(花が収録)が出版
- 1901年 22歳 代表曲・荒城の月や箱根八里などを作曲。留学先のドイツで結核を発症
- 1902年 23歳 ドイツから帰国し、自宅療養
- 1903年 23歳10ヶ月 結核で死去
幼少期から楽器に触れ、父の転勤で日本中を回る
滝が才能を開花させたのは、子どもの頃から音楽に触れる環境にいたからです。父・吉弘は大久保利通のもとで内務官僚として仕えていたため、横浜に移り住んでいます。横浜は当時、西洋の文化がたくさんある街でした。
2人の姉はバイオリンやアコーディオンを習っており、自然と滝も興味を持ちました。いくら音楽の才能があっても明治時代に楽器に触れる事はそうそう出来ません。滝は家庭環境に恵まれていたのです。
やがて滝は7歳の頃に富山に転勤します。その地域では富山県初の音楽会が毎月開催されました。そこで滝は雅楽・神楽・唱歌等を習いました。滝は西洋の音楽だけではなく、日本の古き良き音楽にも触れることができたのです。
滝は富山の冬の寒さから「雪」を、月の夜に見た雁を見て「雁」のメロディを生み出しました。そして滝の代表曲である「荒城の月」は、大分県竹田市にある岡城址がイメージの元になっています。
将来を期待されヨーロッパに留学を命じられる
滝は22歳の時に作曲の技術を学ぶため、ヨーロッパ留学を果たします。日本人の音楽家としては3人目でした。本当は1年前に留学が命じられていましたが、滝は1年延期をしたそうです。その理由は不明です。
ただ滝はその1年の間に、荒城の月などの名曲を生み出しました。留学をする前に、日本で結果を残したかったのかもしれませんね。
やがて滝は1901年5月にヨーロッパ留学を果たし、ドイツのベルリンに到着します。10月には音楽の超名門校である「ライプツィヒ音楽院」の試験に合格しました。その頃の滝は、高度な作曲技術を学ぶために意気込んでいました。
ところが11月にオペラを鑑賞した帰りから体調が悪化します。体調はその後も優れず、12月2日に入院した時に結核が発覚します。その後も状態は思わしくありませんでした。
やがて滝はクリスマスの日に学校を退学しました。それは音楽院に入学してから1ヶ月の事でした。滝はとても無念だった事でしょう。その後も症状は改善せず、滝は1902年10月に日本に戻ってきたのです。
肺結核の末に23歳の若さで死去
滝の結核の症状は帰国した後も良くありませんでした。やがて滝は父の故郷・大分に戻ります。落ち着いた日々を過ごしていたものの、1903年6月29日に23歳の若さで亡くなりました。
結核は感染力が強く、滝の遺品に触れた人が結核に感染する可能性がありました。結核の感染拡大を防ぐため、多くの楽譜が焼却されています。日本に戻ってから作られた曲もありましたが、その多くは灰になったのです。
滝が死ぬまでに作曲した曲は34曲と言われています。これは決して多い数ではありません。ただ残された楽曲は名曲ばかりです。滝が長生きしていれば、日本の音楽界に与えた影響は計り知れないものがあったでしょうね。
滝廉太郎の曲・代表作品を紹介
組歌『四季』に収録された春の歌「花」を作曲
滝は1900年に歌曲集(組歌)「四季」を発表しています。春夏秋冬を表す4曲が収録されています。この中でも春を表した「花」という曲は、とても人気のある曲です。
この曲は日本で初めて作られた合唱曲でもありました。歌詞は以下の通りです。
春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂のしずくも 花と散る
ながめを何に たとうべき
歌詞は「晴れた日に隅田川でボートを漕ぐ様子」を表しており、情景が目に浮かびます。ちなみに歌い出しの「春のうらら」は源氏物語に収録された和歌から引用です。
花がとても有名ですが他にも夏秋冬を表した、「納涼」「月」「雪」も収録されています。どの曲も日本の景色が目に浮かぶような曲ばかりです。ぜひ皆さんきも聴いてほしいと思います。
「荒城の月」を作曲。歌詞は土井晩翠が担当
荒城の月は日本で初めて日本人が西洋音楽の旋律を使用した曲です。そのために歴史的な意義も大きいのです。
滝が「荒城の月」を作曲したのは1901年。中学校唱歌に応募するために作られたものでした。歌詞は土井晩翠という詩人が担当しています。
歌詞の一題目は以下の通りです。
春高楼(こうろう)の花の宴(えん) めぐる盃(さかずき)かげさして
千代(ちよ)の松が枝(え)わけいでし むかしの光いまいずこ
歌詞のテーマは「江戸から明治へ時代が変わりゆく事」です。タイトルになっている「荒城」とは戊辰戦争で旧幕府軍が新政府軍に敗北して、主人を失った城の事を指します。
歌詞は「七音・五音を繰り返す七五調」です。これは古今和歌集にも用いられるリズムです。この曲は従来の日本の旋律である「ヨナ抜き音階(四度と七度の音階がない)」ではなく、「西洋音楽の旋律」で作られています。
ちなみに作詞した土井晩翠は歌詞のイメージを、仙台藩の青葉城址、会津藩の鶴ヶ城址、富山藩の富山城等から引用したとされています。
そして滝は曲のイメージを自分が育った大分の岡城址、富山藩の富山城から引用しています。この曲は、彼らの経験や感情が化学反応を起こして生まれたのですね。
「箱根八里」を作曲!難解な歌詞に込められた思い
滝は1900年に「箱根八里」も作曲しています。作詞は鳥居枕という人物が担当しました。題名の箱根八里は旧東海道にある小田原宿から箱根宿までの四里と、箱根宿から三島宿までの四里を合わせたものです。
この曲には「タンタタンタ」と跳ねるようなリズム、三連符のリズムなど、気分が盛り上がるリズムが使われてきます。滝の曲の中でも特に人気が高く、唱歌に掲載されてから多くの中学生が「箱根八里」を口ずさみました。
歌詞は以下になります。
箱根の山は、天下の嶮(けん)
函谷關(かんこくかん)も ものならず
萬丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え、後方(しりへ)にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小徑(しょうけい)は苔(こけ)滑らか
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士(もののふ)
大刀腰に足駄がけ
八里の碞根(いはね)踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士
歌詞は東海道の難所と、中国の地名や歴史となぞらえているのです。
歌詞に出てくる函谷関は中国の都市・長安に行く時の関所です。函谷関は王朝を守る為に絶対に守らないといけない場所です。つまり箱根の関所を函谷関の難所になぞらえて表現しているのですね。
他にもさまざまな意味が込められています。ぜひ歌詞にも目を通して欲しいですね。
滝廉太郎の功績
功績1「西洋音楽と日本式のメロディの融合!音楽家の革命児となる」
滝の功績は西洋音楽と日本語の歌詞をうまく融合させた事です。
明治時代には洋食や鉄道など、さまざまな西洋文化が輸入されています。それは音楽も同様でした。明治時代にはたくさんの西洋の唱歌が日本に伝わりました。
ただ日本語と英語は音節やアクセント、拍の取り方が異なります。西洋唱歌の歌詞を日本語に翻訳して歌うと、ぎこちなさや違和感が目立ったのです。
文部省は1879年に音楽教育の研究機関を立ち上げました。ただ西洋音楽をベースにして日本人が曲を作る事は難しかったようです。そんな時に彗星のように現れたのが滝廉太郎でした。
滝が作曲した「荒城の月」等の楽曲は1901年に発行された「中学唱歌」に収められます。この曲集はベストセラーになりました。滝の曲は旧制高等学校や大学の応援歌の手本になり、唱歌の普及に大きく貢献しました。
滝の作った曲が日本の音楽を変えたのです。
功績2「教会に駅のチャイム!世界各地で楽曲が使われている」
滝の楽曲は死後100年以上が経過しても皆に愛されています。そして世界各地で使われているのです。
例えば滝の故郷大分県の豊後竹田駅では、荒城の月が駅の音楽として使われています。世界に目を向ければ、ベルギーのシュヴトーニュ修道院の聖歌としても歌われているのです。
また世界的ロックバンドのスコーピオンズが1978年に来日した事がありました。その時に荒城の月をカバーし、話題を呼んだ事もあったのです。
他にも箱根八里は箱根の防災無線チャイムや、箱根登山電車の発車メロディにも採用されています。そして箱根に観光に来た私たちを出迎えてくれます。滝の曲は世界中に広まり、今日もどこかで歌われているのです。
滝廉太郎の名言
日本の歌曲は教育用の学校唱歌ばかりで質の高いものが少ないため、微力ながら日本語の歌詞に作曲した曲を世に出すことによって日本歌曲の発展に寄与したい
滝が組曲「四季」の序盤の序文に遺した言葉を現代語に訳したものです。滝は生前に言葉をほとんど残していません。この名言は滝の音楽に対する姿勢が分かるものであり、とても重要です。
滝の熱量がこの文章からも伝わってきますね。
滝廉太郎の人物相関図
こちら滝廉太郎の家系図になります。滝は若くして亡くなったため独身です。ですが滝の妹や姉の子孫は現在にも受け継がれています。
有名なのは滝の妹・トミの息子である筑紫哲也です。彼はニュースキャスターとして活躍していますね。
滝廉太郎にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「楽曲のルーツはキリスト教?幼少期の体験が大きな影響を与えた」
滝が音楽のルーツにはキリスト教があります。滝は東京音楽学校の研究科に在籍していた頃に洗礼を受けて、クリスチャンになりました。それは1900年10月の事であり、作曲活動に弾みがついていた時期です。
明治維新を経て、日本は1873年にキリスト教禁止令を廃止しました。結果的にさまざまな宗派の伝道師が日本にやってきます。教会で最も身近に触れられる音楽が「賛美歌」だったのです。
日本人が西洋音楽を理解する為に必要なことがありました。それは西洋の概念、すなわちキリスト教です。滝がクリスチャンになった年、滝以外にも多くの学生もクリスチャンになりました。
滝がキリスト教に入信したのは幼少期の体験が大きかったとされます。滝が横浜で暮らしていた頃、官舎の隣には松川家という通訳官の家族が暮らしていました。彼らは熱心なカトリック教徒だったのです。
幼少期の体験がキリスト教の入信に繋がり、優れた名曲を生み出したのです。滝は日本人と西洋人の架け橋のような役割を果たしたのかもしれません。
都市伝説・武勇伝2「滝の楽曲は盗作された?謎を呼ぶ作者不詳の唱歌」
鳩
ぽっぽっぽ 鳩ぽっぽ
豆がほしいか そらやるぞ
雪
ゆきやこんこ あられやこんこ
ふってはふっては ずんずんつもる
上に挙げた2つの曲は皆さんも歌った事があるでしょう。この2曲は1911年の文部省の唱歌に掲載されています。ただ作者は「不明」となっています。
ところが10年以上前に滝がこの歌の元ネタのようや曲を作曲しています。それが以下の曲です。
鳩ぽっぽ
鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ
ぽっぽ ぽっぽと 飛んでこい
雪やこんこん
ゆきやこんこん あられやこんこん
もっとふれふれ とけずにつもれ
タイトルが微妙に違えど、歌詞は非常によく似ていますね。ちなみに作詞をしたのは滝の先輩の東くめという女性童謡作家です「〜もういくつねるとお正月」という歌詞で有名な「お正月」も作曲しています。
現在では滝・東の「鳩ぽっぽと雪やこんこん」よりも圧倒的に「鳩・雪」の方が有名です。滝の曲は盗作されたのかもしれません。実際に作詞を担当した東くめは以下のように述べています。
文部省の歌が出たとき、よっぽど文句を言おうと思ったけれど、私が騒ぐと誰か若い人が傷つくだろうし、その人の一生に影響すると気の毒だから我慢した
滝も盗作疑惑の楽曲について何かを言う事はありませんでした。作者不明の「鳩・雪」が発表された頃、滝は既に亡くなっていたからです。なお、滝の曲は本当に盗作されたのか、今では分かるよしもありません。
都市伝説・武勇伝3「滝の死は計算されたものだった?最後の作品『憾』の真意とは?」
早すぎる死と「鳩・雪」の盗作疑惑には、国家の陰謀だという都市伝説があります。これは2013年9月27日に放送された「やりすぎコージー都市伝説SP」で紹介されたものです。内容は以下の通りです。
文部省の役人は「子どもが楽しめる曲を作るため」に四苦八苦していたものの、うまく作る事が出来ませんでした。そんな時に彗星のように現れたのが滝廉太郎でした。役人達はそれが面白くなかったとされます。
滝は結核が大流行していたドイツに留学させられ、政府の想定通りに結核にかかりました。つまり「滝の死は仕組まれていた」のです。滝はそれに気づいていました。だから死の間際に「憾(うらみ)」という曲を遺した…。
という事が番組で解説されています。信じるはどうかはあなた次第です。
当時の留学は大変名誉な事でした。それに留学させて結核に感染させるのはとても難しい事だと思います。この説はあくまでも都市伝説と考えた方が良いでしょう。