滝廉太郎とはどんな人?生涯・解説まとめ【性格や代表作品、死因や都市伝説についても解説】

1896〜1898年 – 17〜19歳「日本男児の作曲」

音楽学校時代の滝廉太郎(中央)

日本男児を作曲

当時の音楽学校では外国の歌曲のメロディーに日本語の歌詞を当てはめ、それに曲をつけるという授業がありました。その授業の中で滝が初めて作曲したのが1896年の「日本男児」です。

当時は日清戦争が終わり、軍国的な風潮が色濃く残っていました。滝の楽曲にもその傾向があったのです。翌年の1897年は「春の海」「散歩」「命を捨てて」を作曲しています。滝は少しずつ頭角を現していきました。

1898年 – 19歳「研究科に進学する」

滝がプロポーズした三浦環 2020年の朝ドラ・エールのモデルにもなっている

東京音楽学校専修科を首席で卒業

1898年に滝は専修科を首席で卒業します。滝は卒業式で謝辞を述べ、その後の演奏会で「クレメンティのソナタ」を独奏しています。滝の勉強はそこで終わりません。9月にはさらなる音楽の勉強のために、研究科に進みました。

研究科では音楽だけでなく文学・歴史・美学なども勉強しています。これは教員のケーベル博士から幅広い教養を身につける事を諭されたからです。これらの教養も、創作活動に活かされていきました。

青春を謳歌する

滝は研究科に所属しつつ予科・専修科のピアノ教師として活躍しています。一方で日本に伝わってきたばかりのテニスにも熱中しました。持ち前の努力で練習を重ね、かなりの腕前になりました。

文武両道を体現していた滝は、女子生徒からもモテたそうです。そんな滝は後に国際的なオペラ歌手になる三浦環にプロポーズをしています。ただ三浦は学校には内緒で結婚しており、この恋ははかなく散っています。

1899〜1900年 – 19〜20歳「留学の話が舞い込む」

東京音楽学校

留学の話が舞い込む

1899年に滝は「我が神州」を作曲しました。この曲は日本男児を加筆し、更に軍歌調らしさを強めたものです。この年には他にもソプラノとアルトによる合唱である「四季の瀧」を作曲。新たなアプローチを加えた曲を作り上げていきました。

1900年6月には滝はとうとう文部省から以下の指令が出たのです。

「ピアノ及作曲ノ為メ満三ヶ年独国へ留学ヲ命ズ」

滝は卓越した才能を評価され留学が決まります。ただ滝はその留学を1年先延ばしにしています。理由は不明なものの、成果を残してから留学をしたいという思いがあったのかもしれません。

1900〜1901年 – 20〜21歳「音楽家としての覚醒」

滝に大きな影響を与えた外国人教師・ラファエル・フォン・ケーベル

数々の名曲を作り上げる

滝は留学を延期した期間に様々な名曲を作曲しました。8月には組曲「四季」の4曲を作曲しています。

そして夏から秋頃には「メヌエット」を作曲しました。これは日本で初めて作曲されたピアノ曲として知られています。

更に「お正月」「雪やこんこん」「鳩ぽっぽ」などの幼稚園唱歌も多数並行して作曲しました。

そして中学校唱歌として応募した「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」は全て入賞。たった1年で滝の名は音楽界で不動のものになりました。

ドイツへと旅立つ

滝の留学出発日は1901年4月6日に決まります。滝は音楽学校初の男子学生による留学でした。そのため周囲の期待も非常に大きかったのです。

1901年 – 22歳「留学して間も無く結核になる」

ドイツに留学前の滝廉太郎

ドイツに到着

5月18日に滝はドイツのベルリンに到着し、その後は更に北にあるライプツィヒに向かいました。滝は10月から名門のライプツィヒ音楽院に進学。学生たちの音楽理論の理解不足や、知識の足りなさに驚愕したと伝わっています。

滝は留学した時点で、同世代の生徒よりも優れた才能を発揮していたと言えるのです。

結核に感染する

滝は前述した通り12月に結核が判明します。滝は留学先での様子を絵葉書や手紙にしたためて故郷に送っていました。ところが結核に感染し勉強が出来なくなってから、絵葉書はぱったりと途絶えています。

滝の無念さが伝わってくるようです。滝は12月25日に学校を退学し、1902年10月17日に横浜に戻ってきました。

1902〜1903年 – 22〜23歳「作曲活動を続ける」

滝廉太郎の最期の直筆楽譜「憾」

大吉の死

滝は帰国してから従兄弟の大吉夫妻のもとに身を寄せます。しかし11月23日に大吉が脳溢血で40歳の若さで死去。滝は両親のいる大分に戻る事を決意するのです。

作曲活動を続ける

滝は大分に戻る前に「別れの歌」「水のゆくえ」を作曲。12月には「荒磯の波」という最後の歌曲を作成しました。

大分にいた頃の記録はわずかに残されています。滝は曲が出来ると大分高等小学校に行き、オルガンを借りて教師や生徒にその曲を聴いてもらっていました。

やがて滝は自分の死期を悟ります。そんな経緯から1903年2月に最期の曲「憾(うらみ)」を作曲しました。この曲は滝にとって数少ないピアノ曲です。滝がドイツで得た経験を少しでも活かそうとした工夫が見られます。

憾は憎しみではなく、心残りや未練、無念という意味が込められているのです。

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