滝廉太郎とはどんな人?生涯・解説まとめ【性格や代表作品、死因や都市伝説についても解説】

滝廉太郎の年表

1879年 – 0歳「滝廉太郎誕生」

大分にある滝廉太郎の生家

滝廉太郎誕生

滝廉太郎は1879年8月24日に瀧吉弘と正子の長男として生まれます。滝は両親、祖母、2人の姉、従兄の大吉の7人家族でした。滝家は江戸時代に日出藩で家老をつとめた由緒正しい家柄です。

父吉弘は大久保利通にスカウトされ、明治政府に加入した人物です。暴漢におそわれた大久保を守ったこともありました。やがて大久保は1878年に暗殺されます。その後吉弘は伊藤博文の秘書官にな理ました。

音楽取調掛の誕生

音楽取調掛

滝が生まれた1879年には、学校における音楽の教育機関である音楽取調掛が設立されています。明治維新を迎え、西洋音楽が日本に導入される中、「日本の音楽は野蛮で劣る」と称されていました。

音楽取調掛の中心的立場に立ったのは伊沢修二という人物です。伊澤は西洋の音楽が輸入され続ける事で、日本の古き良き音楽が消えてしまう事を不安に感じていました。

伊澤は日本の音楽教育に必要なのは「西洋音楽と東洋音楽の良い部分を取り入れる事」と判断。それを踏まえて西洋音楽と東洋音楽を取り入れた音楽を作る事が求めらました。ただノウハウもない中での作曲は大変だったようですね。

1880〜1885年 – 1〜5歳「横浜へ赴任」

滝廉太郎の父・吉弘

横浜へ赴任

父・吉弘が神奈川県の少書記官に任命され、滝一家は横浜に転勤します。横浜は西洋の文化が多く伝わる土地でした。そして滝は隣の宿舎に住んでいた松川家の人々とも親しくなりました。

松川家の人々はキリスト教徒でした。彼らな滝に与えた影響は大きかったのです。

滝は松川家の人たちから初めてキリスト教のミサの存在を教えてもらいました。更に松川家の官舎で行われた家庭音楽会に姉2人と招かれた事が伝わっています。

1886〜1891年 – 6〜8歳「富山へと引っ越しする」

富山尋常師範学校附属小学校

富山へ赴任

1886年4月に滝は神奈川県の師範学校附属小学校に進学します。そして8月には父の転勤で富山県に移り住み、9月には尋常師範学校附属小学校に進学しています。

この学校は旧富山城内にありました。滝は登下校を通じて「城」という日本の文化に触れています。また滝が住んだ富山の地域は美しい自然の情景に囲まれており、滝の感性に磨きをかけたとされます。

富山県初の音楽会に参加する

タイミングの良いことに11月には師範学校講堂で富山県初の音楽会が開催されます。これは1879年ごろから活発化した政府の音楽教育への影響です。滝も音楽会に参加して歌ったり、楽器に触れています。

この地では賛美歌や姉が習っていたバイオリンとは異なり、唱歌・神楽・雅楽・朗詠などの古き良き日本の音楽が主流でした。滝は伊沢修二の求める「西洋東洋の音楽の良い部分に触れる教育」に近い事が出来たのです。

やがて父・吉弘は免職となります。そして次の仕事を探すために1888年5月に一家を連れて東京に戻りました。滝もまた東京にある麹町小学校2学年に転入しています。

1888〜1890年 – 8〜10歳「父の故郷大分へ」

荒城の月のイメージのもとになった岡城址

父の仕事が決まる

1889年3月に父・吉弘が故郷の大分県で大分郡長に命じられます。ただ滝は祖母達と東京にとどまっています。一家が大分で住み始めたのは、1890年5月の事でした。なお同じ月に病弱だった姉のリエが亡くなっています。

イジメにも負けなかった廉太郎

滝のトレードマークである丸眼鏡ですが、幼少期からつけていた事が伝わっています。ただ当時は眼鏡が地方にまで普及していませんでした。滝は転校先の大分でイジメに遭うのです。

ただ滝は神奈川・富山・東京と転校を繰り返していた身です。密かにコマ回しを練習しており、一躍人気者に躍り出ました。更に3年生の頃には馬の絵の鉛筆画で最高特別賞を受賞。マルチな才能を発揮したのです。

1891〜1894年 – 11〜15歳「音楽家を志す」

滝の従兄弟である滝(瀧)大吉

豊後竹田へ転居

1891年12月に一家は大分県の豊後竹田へ転居。滝も直入郡高等小学校に転入します。学校の裏には荒城の月の着想の元になった「岡城跡」がありました。滝はこの場所でよく遊んだ事が伝わっています。

音楽家を志す

滝はこの頃から音楽の才能を発揮。姉のバイオリンを独学で弾き鳴らしています。4年生の頃には音楽の道を志す事を考えました。ですが吉弘は「音楽は婦女子のする事」と反対。滝に官僚の道を進んで欲しいと思っていたのです。

そんな父を説得してくれたのは、滝と18歳も歳の離れた大吉でした。大吉は滝の才能を高く評価し「人は各々天分を生かすべきだ」と吉弘に主張します。吉弘もついに折れて、滝は東京音楽学校への進学が許されました。

高等小学校には当時では珍しいオルガンがありました。進学の許可を得た滝は教員達から音楽の手ほどきを受けています。滝は生徒で唯一オルガンを弾く事を許されていたのです。

1894〜1896年 – 15〜17歳「東京音楽学校に進学」

滝の師匠だった幸田延

東京音楽学校に進学

滝は1894年9月に最年少で難関の東京音楽学校の予科に合格しました。ここでは歌の指導などの和声学や、ピアノの勉強をしています。滝は翌年に専門性の高い教育を受けるため専修科に進学しています。

この頃の滝に大きな影響を与えたのが、1895年11月に6年間のドイツ留学から帰国した幸田延(のぶ)です。彼女は文豪・寺田露伴の妹で、日本初の音楽留学を果たした女性です。

この頃は日清戦争の影響で外国人教師が帰国していました。延のように西洋の技術や知識を持った人はとても期待されていたのです。滝は延からピアノ・作曲・声楽の教えを受けて、さらに成長していきました。

ちなみに滝は服装にもこだわりがありました。学ランの第一ボタンだけを留めて通学し、独自のファッションを流行らせています。滝は厳しくも楽しい青春を謳歌していたのです。

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