代表作・世界最終戦論に込められた石原莞爾の思想
石原は1940年9月に「世界最終戦論」を出版します。この本を読むと「石原が世界平和を望んでいた」と分かります。内容をまとめてみましょう。
- 世界ではいずれ航空機や大量破壊兵器を用いた「最終戦争」が行われる
- 最終戦争を戦う国は、ブロック化した4つの勢力のどこかである
- 候補になる勢力は「ヨーロッパ・ソビエト連邦・東亜・南北アメリカ」である
石原は最終戦争を戦う勢力は「東亜(日本や中国などの東アジア)と南北アメリカ」と考えました。ただ石原は最終戦争が起こるのは1970年ごろだと述べています。そして最終戦争が起こる条件を3つ挙げました。
- 東アジアの民族が結束する
- アメリカが西洋の中心国家になる
- 兵器が飛躍的に発達し、飛行機は無着陸で世界を一周できる
石原が「世界最終戦論」を出版した頃は1940年。日中戦争で日本人と中国人が争っていた時代です。日本がアメリカとの最終戦争に勝つには、東アジアの民族が仲良くなる必要があります。
つまり石原は「最終戦争に向けて、日中戦争を終わらせよう。東アジアの民族が手を取り合おう」と主張したのです。
結局日本はアメリカとの戦争に敗れます。石原が想定した「東亜と南北アメリカによる最終戦争」には至りませんでした。ただ1970年代にはソ連とアメリカによる冷戦が起こり、第三次世界大戦は目前とされていました。
仮に第三次世界大戦が起きていれば、核兵器が使われていた事は間違いありません。石原の予言は「アメリカの最終戦争」ではなく「アメリカとソ連の最終戦争」という形で、ある程度は当たっていたのです。
石原莞爾の功績
功績1「二・二六事件の鎮圧に貢献する」
1936年2月26日に日本を震撼させる出来事が起こります。それは陸軍の若手将校によるクーデター未遂・二・二六事件です。彼らは昭和天皇による親政を訴え、政府の要人を殺害。更に首相官邸などを占拠しました。
二・二六事件で石原はクーデターの鎮圧にあたります。陸海庁に現れた石原に若手将校は銃を突きつけます。しかし石原は彼らに以下のように言いました。
何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ。
陸軍とは「天皇の命令で動く軍隊」です。天皇の命令を無視した若手将校達に、石原は激しく怒ったのでした。鎮圧はとても迅速に進められます。石原に良い感情を持っていなかった昭和天皇も、このように述べています、、
一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった
石原は国家の危機に勇敢に立ち向かったのです。
功績2「日中戦争の早期終結に尽力した」
1937年7月に日本と中国による戦争である「日中戦争」が起こります。石原は「不拡大方針」を唱え、陸軍や総理大臣・近衛文麿による強硬路線に反対しました。
石原が満州事変を起こしたのは「アメリカとの最終戦争」に備えるためです。石原は満州の資源や利権を日本が手に入れて、日本を発展させようと考えていました。
世界最終戦論の項目でも解説しましたが、石原にとって中国は「アメリカに対抗するための同志」です。だからこそ、戦争の拡大に反対したのです。
石原はドイツの外交官・トラウトマンを仲介にした「トラウトマン工作」など、さまざまな策を講じます。結局のところ、陸軍や内閣が強硬的な姿勢を崩さなかったので、日中戦争は泥沼化していきました。
やがて石原は陸軍内で孤立し、左遷されるのです。
功績3「立命館大学の国防学研究所長に就任する」
やがて陸軍を追われた石原は、1941年4月に立命館大学講師の講師になりました。そして国防学研究所所長に就任したのです。
時期的には太平洋戦争が起こる半年ほど前の事。日中戦争も泥沼化しています。同時にアメリカとの仲も急激に悪くなっていたのです。
石原は「国防は軍人だけのものではなく、国民が国防の知識を得ることが必要」と考えます。これが国防学研究所所長に就任した理由でした。
石原は国防論・戦争史・国防経済論などを教えたほか、乗馬部の学生に課外教育として乗馬を教えています。この頃に石原の授業を受けた学生は、その内容に感銘を受けたのではないでしょうか。
ただそんな行動を東條英機は見逃しませんでした。東條はかつて石原と対立した事を覚えていたのです。東條は憲兵隊を利用し、石原の行動を逐一チェック。石原はその圧力により、9月に立命館大学講師を辞職したのです。