石原莞爾とはどんな人?生涯・年表まとめ【天才的戦略家の思想や最終戦争論、子孫や死因についても紹介】

石原莞爾の年表

1889〜1902年 – 0〜13歳「石原莞爾誕生」

幼少期の莞爾(左)と二郎(右)

やんちゃだった幼少期

石原は1889年1月18日に現在の山形県鶴岡市で生まれました。石原は幼少期に麻疹にかかるなど病弱な身体でした。

ただ同時に乱暴な性格でもあったようです。石原は小さい頃から「陸軍大将になる」と目標を持ち、戦争ごっこをして遊んでいました。

小さい頃から天才だった

石原は高等小学校を2年生から進学しています。それは高等小学校に入学する前から、1年生の試験問題で1番の成績を修めていたからです。その後の石原は父親の転勤で、各地を転々としています。

その後石原は1902年に仙台陸軍地方幼年学校に入学。この学校で将来の陸軍の幹部になる為に勉強を重ねました。抜群の成績を修めますが、写生の授業で男根を書いて提出するなど「真面目な優等生」ではなかったようですが。

1902〜1910年 – 13〜22歳「陸軍士官学校を卒業する」

陸軍士官学校の校舎

陸軍士官学校の成績は418名中13番

1907年に石原は実際に陸軍軍人になるために、陸軍士官学校に入学します。この頃の石原は目上の人に侮辱的なことを言うなど、素行の悪い生徒でした。卒業時の成績は418人中13番。優秀ではあるものの、今ひとつでした。

1910年に石原は士官学校を卒業します。石原は歩兵第65連隊に所属し、連隊の教官として厳しい訓練を行っています。

1911〜1915年 – 23〜27歳「陸軍大学校に入学」

陸軍大学校の校舎

陸軍大学校に入学

1915年に石原はその頭の良さを買われ、歩兵第65連隊の隊長に陸軍大学校の試験を受ける事を命じられます。陸軍大学校は陸軍のエリートを養成する学校です。

陸軍は陸軍大学校の成績が出世に直結します。大学校の成績が良ければ、陸軍の要職に勤めることも夢ではありません。

ただ石原は現場の勤務を望み、出世に興味がありませんでした。そのため一日中部隊勤務に励んでおり、勉強をしている様子はありません。ただこの年に歩兵第65連隊で合格したのは石原だけでした。

石原は隠れて勉強をしていたのか、勉強をしなくても成績が良かったのかは分かりません。ただ言えるのは石原はとても頭が良かったという事だけです。

1917〜19年 – 27〜30歳「陸軍大学校の卒業と、二度の結婚」

陸軍大学校の同期達(石原は前列の中央)

清水泰子と結婚

石原は陸軍大学校に在籍中の1917年に、清水泰子という資産家の娘と結婚しました。ただこの結婚は本人は知りませんでした。石原家は借金が多く、清水家の資産をアテにしての結婚だったのです。

結果的に式は挙げるものの、僅か2ヶ月で離婚しています。

陸軍大学校を卒業する

1918年に石原は陸軍大学校を卒業します。成績は次席(2番)でした。その後石原は歩兵第65連隊に復帰しています。1919年7月にはエリートコースである教育総監部に赴任しました。

ちなみに8月には国府銻子と再婚。2人の結婚生活はあまり記録には残っていません。2人に子どもはいなかったとされますが、元TBSテレビ取締役会長の石原俊爾が孫という説もネットでは見られます。

ただ石原莞爾の苗字はイシワラで、石原俊爾の苗字はイシハラです。苗字と名前が似ているだけで、血縁関係はないのかもしれません。

1920〜1928年 – 31〜39歳「国柱会に入信」

第一次世界大戦の様子

国柱会に入信する

石原は1920年に「都市伝説・武勇伝2」で解説した「国柱会」に入信します。石原に与えた影響は大きく、講義で紹介された「日蓮の予言した最終戦争」に強い不安を抱きました。

石原は1922年にドイツに留学します。第一次世界大戦で前線に立った将軍達から、今回の戦争で「毒ガス」などの様々な兵器が使われた事を聞きます。石原は今後の戦争は「大量破壊兵器」による殲滅戦になると確信したのです。

満州を手に入れる事を考える

やがて石原はアメリカとの最終戦争は避けられないと考えました。そのため満蒙(満州とモンゴル)を日本が占領して、これに備える事を構想します。

1927年に石原が書いた論文「日本の国防」には既に満州事変の構想がありました。満州事変は4年前から石原によって考えられていたのです。

この頃に石原は同世代の陸軍将校と「木曜会」という会合グループを結成。陸軍の装備や国防の指針について話し合っています。

1928年1月の会合で石原は「最終戦争は避けられない」そして「満州を占領して日本の力をつける事で、何十年でも戦争を続けられる」と話しています。満州事変は仲間たちと実行に移されていくのです。

1928〜1931年 – 39〜42歳「関東軍に赴任する」

新京の関東軍司令部(総司令部)

関東軍作戦主任として満州に赴任する

石原は10月に満州に駐留する関東軍に赴任します。更に作戦を指揮する参謀という役職になりました。この地で石原は関東軍と「満州を占領する計画」を練っていきます。

当時の陸軍には木曜会とは別に、二葉会という会合グループが存在しています。彼らは木曜会より上の世代で、永田鉄山という人物がその中心にいました。

二葉会は陸軍内の人事問題について話し合っていました。この二葉会と木曜会は1929年に合同し、一夕会と名を変えます。そして「満蒙問題」と「人事問題」について、大きな視野で考えるようになりました。

あくまで理想家の石原

永田鉄山

やがて一夕会のメンバーは外堀を埋めるように、陸軍の中央ポストを占めます。仮に満州で関東軍による占領が行われても、「陸軍内で許可する雰囲気」を作る為です。

ただ永田は満州の占領にそこまで賛成はしていません。「中国が日本に敵対心を持つ」「アメリカやイギリスに目をつけられる」と考えたためです。

石原は満州を日本のものにするつもりでしたが、満州そのものの発展を願ってもいました。国柱会の教えを守り、満州に王道楽土を建国しようとしたのです。

そのため石原はあくまで理想を追求し、満州の占領を考えます。

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