石原莞爾とはどんな人?生涯・年表まとめ【天才的戦略家の思想や最終戦争論、子孫や死因についても紹介】

1931〜1932年 – 42〜43歳「満州事変勃発」

柳条湖事件の見聞をするリットン調査団

満州事変勃発

1931年9月に石原は関東軍と一緒に満州事変を起こします。当時の満州には23万人の中国軍がいたものの、日本の軍はわずか1万2千人。朝鮮軍を指揮する林銑十郎が、独断で満州に兵を派遣した事で、満州の占領に成功します。

当時の政府は満州事変に反対でした。しかし関東軍の暴走を止める事は出来ません。1932年には関東軍が独断で満州国を建国するなど、どんどん暴走は進んでいきました。

石原と周囲とのズレ

石原は満州を独立させて、最終戦争に備えるという目標を持っていました。石原にとって中国や満州は共にアメリカと戦うための同志です。そのため更なる領土の侵略などは全く考えていませんでした。

しかし関東軍は満州事変を経て、領土侵略の野心を持ち始めます。関東軍はますます暴走を始め、中国各地で戦線を引き起こしました。石原の理想は関東軍には届いていなかったのです。

1933〜1936年 – 44〜47歳「二・二六事件の勃発」

二・二六事件の様子を伝える新聞

二・二六事件が起こる

石原は1935年に参謀本部作戦課長として、陸軍の中央に赴任しました。当時の石原は満州事変の功績から一目置かれるようになっています。また翌年には二・二六事件が起こり、この鎮圧にも当たりました。

当時の陸軍は「統制派」と「皇道派」という派閥争いが起きてもいました。二・二六事件を起こしたのは「皇道派」です。

石原はどちらの派閥にも属さずに「満州派」を名乗っています。石原は派閥に収まるような人物ではなかったのです。

1937〜1938年 – 48〜49歳「日中戦争勃発」

中国・江蘇省に展開する日本軍部隊

盧溝橋事件勃発

1937年7月に中国の盧溝橋付近で、日本軍と中国軍との間で小競り合いが起こります。この小競り合いは拡大し、やがて日中戦争に発展するのです。

当時の石原は出世し、参謀本部第1部長という役職になっていました。石原は不拡大方針を唱えますが、陸軍内の強硬路線を抑えられませんでした。陸軍内では日中戦争に勝利して、更なる領土の拡大を企む人が多かったのです。

結局日中戦争の拡大は止まらないまでした。石原は1937年9月に石原は関東軍参謀副長として、中国大陸に赴任します。

1937〜1938年 – 48〜49歳「東條英機との確執」

この頃の東條英機の写真

再び関東軍に赴任する

この時の参謀は東條英機です。東條は一夕会にも参加しており、2人は顔なじみの関係でした。ただこの2人の相性はとても悪かったのです。

石原は先輩や上司にも思った事を平気で口にします。東條は上下関係を大切にする性格であり、そんな石原の行動が気に入らなかったのです。

東條英機との対立

やがて石原と東條は満州のあり方について激しく対立します。石原は満州国を満州人に運営させ、最終戦争に打ち勝つための盟友にする事を考えていました。しかし東條はその考えが理解出来ません。

石原は東條の事を無能呼ばわりし、罵倒を続けました。東條はそんな石原を「許すべからざるもの」と判断。権限を使い、石原の排除を考えます。

石原は1938年8月に謀副長を罷免されます。そして12月には舞鶴要塞司令官に赴任。これは東條の手による左遷でした。石原は日中戦争の拡大を止められないまま、関東軍を去る事になったのです。

1938〜1945年 – 49〜56歳「太平洋戦争勃発」

太平洋戦争(戦線は真珠湾攻撃のもの)

現役を退く

東條はその後も石原の排除を図りました。1941年には現役を退いて予備役軍人になります。

この頃の石原は1940年に「世界最終戦論」を出版。更に1941年に立命館で国防の講義をするなどの活動をしています。日中戦争は泥沼化しており、その解決を図りたいという強い思いがあったのです。

太平洋戦争勃発

1941年12月にアメリカとの戦争である太平洋戦争が勃発します。石原は開戦に断固反対の立場を取り、「日本は必ず負ける」と主張しています。

更に「日本・満州・中国の連携を目指した東亜連盟」を結成し、多くの賛同者がいました。石原は中国とのパイプを活かした和平交渉や、東條英機暗殺計画にも関与しましたが、いずれも失敗しています。

1945〜1948年 – 56〜59歳「終戦を迎える」

1945年頃の石原莞爾

東京裁判

1945年8月15日に日本は終戦を迎えます。やがて連合国による「東京裁判」が開催されます。石原は都市伝説・武勇伝3で述べた通り、名前を間違えられた事で、戦犯リストから外れました。

石原は山形県で行われた出張法廷に、証人として出廷します。石原は「日本に帝国主義を教えてのはアメリカである」と主張したと伝わっています。また東條英機との確執について聞かれた時には、このように答えました。

私には些細ながら思想がある。東條という人間には思想はまったくない。だから対立のしようがない

石原は最後まで東條の事を嫌っていたのです。やがて東京裁判の判決により東條英機を含めた7人は絞首刑となりました。

1949年 – 60歳「石原莞爾死去」

石原莞爾の墓

満州事変の失敗を反省する

戦後の石原には軍事顧問などの誘いがありましたが、これらを全て断っています。長年にわたり考えた満州国の建国は、太平洋戦争の敗戦により失敗した事を石原は痛感したのです。

石原は戦後にこのような言葉を残しています。

わしが理想郷を心に描いて着手した満州国が、心なき日本人によって根底からふみにじられたのである。在満中国人に対する約束を裏切る結果となってしまった。その意味において、わしは立派な戦争犯罪人である。独立に協力した中国人に対してまことにすまなかった、と思っている

石原莞爾死去

石原は山形県の高瀬村の西山農場で、同志達と共同生活を送り、余生を過ごしました。その後、1949年8月15日に石原は60歳で、膀胱癌や肺水腫、肺炎を併発して亡くなります。

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