音楽史とは?西洋クラシックから日本まで年表順でざっくり解説!

古楽の復興、音楽院の設立、「音楽評論」の登場

19世紀になると、古い音楽について勉強しようという新しい動きも出てきました。代表的なのはメンデルスゾーンによるJ.S.バッハの「マタイ受難曲」再演・復興が挙げられます。それまでは「音楽家にとっての専門書」のような存在であったバッハが、広く一般的に知られるようになりました。

またメンデルスゾーンは音楽院を設立し、演奏家や作曲家になるための勉強が体系的に行えるよう環境を整えました。音楽を専門的に学ぶ高等教育機関としての音楽学校が誕生したのはこの頃だといわれています。

メンデルスゾーン 「ヴァイオリン協奏曲」

後期ロマン派音楽:1850年~

19世紀後半になると、産業革命以降の社会的、政治的、経済的な変化がヨーロッパに定着しました。クラシック音楽は爛熟期を迎え、大規模で大編成な「楽劇」「交響詩」などが書かれました。

この時代に活躍した音楽家

リヒャルト・ワーグナー:1813年~1833年

ロマン派のオペラを集大成したのがリヒャルト・ワーグナーです。彼はオペラを音楽、文学、演劇、美術を一緒にした総合芸術として完成させたため「楽劇王」とも呼ばれています。

ワーグナー《ワルキューレ》「告別と魔の炎の音楽」

後期ロマン派音楽:1804年~

ロマン派音楽のもう一つの大きな特徴は、特定の国々で民族音楽などと結びついた芸術音楽の様式・国民楽派が登場し、ロシアやチェコ、フィンランドなどの作曲家たちが楽壇に登場します。

ロシアの国民楽派:1804年~

ロシアではミハイル・グリンカを皮切りとして、ロシア5人組(ミリイ・バラキレフ、ツェーザリ・キュイ、モデスト・ムソルグスキー、アレクサンドル・ボロディン、ニコライ・リムスキー=コルサコフ)などが国民楽派で代表的な人物です。

同じロシアのピョートル・チャイコフスキーは国民楽派的な趣向を持ちながらも、西洋的、アカデミックな趣向も取り入れ、あくまでも中立な作風を貫きました。

Tchaikovsky: Swan Lake – The Kirov Ballet:チャイコフスキーは「白鳥の湖」「くるみ割り人形」などバレエ作品を多く作曲しました。

この頃の日本の音楽

現在の旧東京音楽学校本館および奏楽堂

日本では鎖国時代が終わり、明治維新などを経て急激に西洋化がはじまりました。東京藝術大学・音楽部の前身である東京音楽学校が1887年に創立され、西洋音楽の普及・そして同時に日本古来の音楽の保護や研究が同時に行われました。

また明治時代になると学制が発令され、ようやく音楽教育が広く一般的に行われるようになりました。

滝廉太郎 花:滝廉太郎はメンデルスゾーンの設立したライプツィヒ音楽院に留学しました。
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3 COMMENTS

Michie

西洋音楽の歴史を、グレゴリア聖歌から、ルネッサンまで一気に聞かせていただきました。
学生の頃講義で習いましたが、メロディの流れがこのように変化していったのか!と納得。大変勉強になりました。グレゴリア聖歌とお経が似ているというのは全くその通りだと思います。人間の願いは共通なのですね。

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