エジソンとはどんな人?生涯・年表まとめ【電球などの発明品の紹介や名言、母親の教育について解説】

エジソンの年表

1847〜1854年 – 0〜7歳「発明王エジソンの誕生」

エジソンの生家

エジソン誕生

エジソンは1847年2月11日にオハイオ州マイランで、サミュエルとナンシーの7人兄弟の末っ子として生まれます。エジソンの本名は「トーマス・アルバ・エジソン」です。そのため、家族からは「アル」と呼ばれていました。

父・サミュエルは製材所の経営者であり、母・ナンシーは元教師です。やがてエジソンは7歳の頃に家族とミシガン州ポートヒューロンに移り住みました。

1855年 – 8歳「小学校を退学する」

少年期のエジソン
出典:Wikipedia

学校で馴染めなかったエジソン

やがてエジソンは小学校に通いますが、前述した通り学校生活に馴染む事は出来ませんでした。先生が「1+1=2」という事を教えている時、エジソンはこう質問します。

「1個の粘土と1個の粘土を合わせても(混ざって)1個の粘土になるだけなのになぜ2個になるのか」

非常に良い質問ですが、どう答えて良いか分かりません。エジソンは何か疑問がある度に先生に質問を繰り返し、先生を困らせます。

自宅の納屋を全焼させる

エジソンの好奇心は学校だけでなく、自宅でも発揮されています。エジソンは「なぜ物が燃えるのか」と疑問に思い、納屋の藁に火をつけます。結果的に納屋は全焼したのです。

この一件で、父・サミュエルはエジソンに失望。学校での度重なる行動もあり、エジソンは3ヶ月で退学処分となるのです。

そんなエジソンを庇ったのは、前述した通り母親のナンシーでした。ナンシーは学校の問題児だったエジソンの教師になる事を決めたのです。

1855〜1861年 – 8〜14歳「化学に目覚める」

グランド=トランク鉄道

化学に強い興味を持つ

母親と勉強をするうちに、エジソンは化学に強い興味を持つようになりました。エジソンは自宅の地下に研究室を作り、本を読みながら研究に没頭。エジソンの好奇心は「知的好奇心」へと昇華されたのです。

お金を稼ぐため働き始める

ナンシーはエジソンが欲しがる本を買い与えました。ただ高価な本には手が届きません。エジソンはお金を稼ぎ、必要な本や実験道具を買う事を決めます。9歳の頃に野菜売りをしていたのは、前述した通りですね。

エジソンは1859年にはグランド=トランク鉄道の新聞売り子になり、お金を稼いでいきました。当時のアメリカは1861年に南北戦争が起こる事もあり、情勢は不安定でした。飛ぶように新聞は売れたのです。

ただエジソンの勤務時間は朝7時から10時、夕方から夜の9時半。肝心の実験が出来ません。エジソンは電車内に化学室を作り、実験を続けました。

エジソンは自分で新聞を作り、それを売りお金を稼ぎます。そんなある日、電車内の化学室で火事が起こりました。実験室は閉鎖され、新聞作りも中止になります。エジソンは新聞売りの中で、成功と失敗を学びました。

1862〜1868年 – 15〜21歳「電信技術を学ぶ」

印刷式電信受信機と電鍵

人助けが人生を変えた

失意の中で新聞売りを続けるエジソンに転機が訪れます。エジソンはある日、電車に轢かれそうな子ども助けました。その子は駅長の子だったのです。駅長はお礼に「電信技術」をエジソンに伝授しました。

電信とは「モールス信号を使った通信システム」です。当時はメールも電話もない時代。長距離に張り巡らせた電線を通し、連絡を取り合っていたのです。エジソンは「スピード王」と呼ばれる程、優れた通信技師となりました。

この通信技師の技術はエジソンの発明に大きな影響を与えます。

発明品でクビになりかける

17歳の頃のエジソンはカナダで夜間電信係として働きました。勤務は「何もなければ1時間に1度、勤務に就いている事を示す信号を送るだけ」です。エジソンは仕事に飽きてしまい、電信機が自動で電信を送る機械を発明します。

エジソンは電信を機械に任せて就寝しますが、上司は「誤差なく電信が届く事」に不審を抱きます。結果的にエジソンは上司に怒られるのです。この発明こそが、エジソンの最初の発明だと言われています。

1868〜1870年 – 21〜23歳「電気投票記録機と株式相場表示機を発明する」

エジソンの発明した電気投票記録機

電気投票記録機を発明

やがてエジソンは1868年に電気投票記録機を発明します。これは議会中の賛成票と反対票の数を、押しボタンで瞬時に集計出来るものでした。これは投票時間を大幅に短縮できる、画期的な発明です。

ただ実際には「投票中の交渉が出来ない」という理由で、採用される事はありませんでした。エジソンはこの経験をもとに「人々が喜ぶもの」を発明する必要を感じ、周囲の意見や要望を聞いてから発明に取り組んだのです。

株式相場表示機を発明

エジソンの特許第2号となった株式相場表示機

反省を踏まえてエジソンは翌年に、株式相場表示機を発明します。これは業界から大きく歓迎されました。ある時、エジソンに「特許権を譲って欲しい」と申し出がありました。

エジソンは5000ドルで著作権を譲るつもりでしたが、相手から打診された金額はまさかの4万ドル。現在の価格で2億円です。大金持ちになったエジソンですが、現状に満足せずにこの資金を元手に本格的に発明家の道を歩むのでした。

1871〜1877年 – 24〜30歳「電話機と蓄音機を発明する」

エジソンの一人目の妻・メアリー

1度目の結婚

エジソンは株式相場表示機で得た資金を元手に子会社を設立。1871年に従業員だったメアリーと結婚するのです。エジソンは1873年〜1878年の間に3人の子どもにも恵まれました。

ただエジソンは1872年頃から、自動電信機や複写機などの研究を本格的に開始。更に1876年にはメンロパークに研究所を設立するなど、多忙な日々を過ごしています。自宅にはほとんど戻っては来ない日々が続いたのです。

電話機と蓄音機の発明

1876年1月には電話機の発明に成功します。惜しくも特許の申請は間に合わずに、ベルに特許権を譲る事になりました。ただこの事がエジソンの闘争心に火をつけたのです。エジソンは翌年に蓄音機の発明に成功します。

蓄音機を発明した背景にはエジソンが「難聴だった事」が挙げられます。駅で働いていた12歳の頃にエジソンは不慮の事故で片耳が難聴になっていたのです。

エジソンは「難聴だったから精度の高い蓄音機を発明出来た」と述べています。耳が聞こえないからこそ、音に対する情熱も高くなります。エジソンは難聴という逆境をバネに蓄音機を作り上げたのです。

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5 COMMENTS

赤司征十郎

エジソンは、世界中の英雄だと思ったし、名前は知っていたけど詳しくしれてよかった

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