エジソンとはどんな人?生涯・年表まとめ【電球などの発明品の紹介や名言、母親の教育について解説】

1879〜1886年 – 31〜39歳「矢継ぎ早に発明品を生み出す」

白熱電球

白熱電球の発明

蓄音機を発明したエジソンは、炭素フィラメントの白熱電球の実験に成功します。それは1879年の事でした。その後のエジソンは電力事業を軌道に乗せる為、様々な実験や開発に取り組みます。

1880年には発電機の開発、電気照明のシステム構築、更には電気機関車の実験にも成功。そして1881年には「エジソン電気照明会社」が設立するのです。白熱電球の開発は、新たな産業の始まりとなりました。

メアリーの死

エジソンの2人目の妻・ミナ・ミラー

忙しい生活の為、エジソンは家庭を省みる事はありませんでした。メアリーは引きこもりがちになり、次第に体調を崩してしまいます。メアリーは1884年に29歳でこの世を去りました。

エジソンは2年後の1886年に富裕な発明家の娘・ミナ・ミラーと再婚。ミナは当時20歳でメアリーの子ども達は戸惑ったようです。エジソンはミナとの間にも3人の子をもうけますが、元の子ども達とは不仲となりました。

人間関係は発明とは異なり、何度も失敗は出来ません。エジソンが苦手としたのが、親子の関係性だったのかもしれません。

1887〜1892年 – 40〜45歳「実業家としても台頭する」

ニュージャージー州にあるエジソンの研究施設の1つ

エジソン・ゼネラル・エレクトリック社を創設

1887年にエジソンは研究室をニュージャージー州に移転します。更に1888年には自分の会社を合併させ「エジソン・ゼネラル・エレクトリック社」を創設しました。ちょうどニコラ・テスラとの電流戦争が過熱する頃ですね。

更に1889年にエジソンはキネトスコープを発明。更に1890年には鉱山事業に取り組んでいます。エジソンの発明と、新規開拓への意気込みは更なる拡大を見せたのです。

電流戦争の敗北のツケを払う

ゼネラル・エレクトリック社のロゴ

多方面に活躍するエジソンですが、一度大きな敗北を味わいます。それが前述した電流戦争です。エジソンはニコラ・テスラ陣営の主張する交流電流の印象を悪くする為、様々な工作をした事は以前述べた通りです。

結果的にエジソンの主張する直流電流は交流電流に敗北。更に様々な妨害をしたエジソンの印象も悪くなりました。エジソン・ゼネラル・エレクトリック社の株の過半数を持っていたのはJ・Pモルガンという人物です。

彼の意向によりエジソンは社長の座を辞任。1892年に会社は「ゼネラル・エレクトリック社」と、エジソンの名を削除して再スタートを切りました。エジソンは電流戦争の末に会社から追い出される事になったのです。

1893〜1907年 – 46〜60歳「映画事業に心血を注ぐ」

エジソンが立ち上げた映画スタジオ(ブラック・マリア)

不屈の精神力

自らの会社から追い出されたエジソンは、1898年には鉱山経営の失敗も経験します。しかし不屈の精神を持つエジソンは諦めません。1900年にはアルカリ蓄電池の研究を開始。9年の歳月を経てアルカリ蓄電池を完成させます。

この頃のエジソンが心血を注いだのは、キネトスコープによる映画の大衆化でした。1893年にはブラック・マリアという映画スタジオを立ち上げ、1907年にはブロンクスにもスタジオを開設。約1200本のフィルムを制作したのです。

1908年 – 61歳「モーション・ピクチャー・パテント・カンパニーを設立」

映画の都・ハリウッド

訴訟王の名のもとに

エジソンはこの頃から各映画会社に訴訟を行っています。エジソンは映写機などの特許を保有しており、映画を上映する際に各会社に莫大な特許料を請求したのです。結果的にエジソンは多くの訴訟に勝利し、莫大な利益を得ています。

疲弊した各映画会社の申し出により、エジソンは1908年にモーション・ピクチャー・パテント・カンパニーMPPC)という会社を設立。この会社は特許を共同保有する事を目的としていました。

ハリウッドの誕生はエジソンの訴訟?

しかしエジソンの会社の傘下に入れなかった映画会社は、特許料徴収と訴訟に耐えられずに事業を畳みます。それでも諦めなかった会社は西海岸のハリウッドに逃げて映画製作を続けました。

これがハリウッドが「映画の都」と呼ばれる理由です。エジソンの訴訟は結果的に映画の更なる市場の拡大を生み出す事になりました。ちなみにMPPCは独占禁止法に違反するという事で、1918年に解体されています。

1909〜1927年 – 62〜80歳「晩年も発明に取り組む」

晩年のエジソン

研究所が火事になる

1914年には研究所が火事になるという不幸に見舞われます。幸い犠牲者はいませんでした。しかしエジソンは一夜にして、莫大な研究成果と研究設備を失ったのです。エジソンは燃え上がる火を見て家族にこう言いました。

こんな大きな火事にお目にかかる機会はめったにないから、じっくり見ておくがよい。

翌日にエジソンは全てが灰になった研究所の周りを歩き回ります。そしてこうも言いました。

災害には大変なありがたみがあるね。われわれの失敗はすべて灰になったよ。これから真っさらでスタートできることを神に感謝しなければ。

そうです。エジソンは67歳になって全てを失っても諦めるつもりはありませんでした。エジソンはその後も研究を続けたのです。1927年には、セイタカアワダチソウからゴムを生成する実験にも成功したとされます。

エジソンの不屈の精神を私達も見習いたいものですね。

1927〜1931年 – 80〜84歳「エジソン死去」

石清水八幡宮境内にあるエジソン記念碑

エジソン死去

晩年のエジソンは新たな研究所にこもり「死者との交信」の研究を続けます。80歳を過ぎても1日16時間も研究を続けたエジソンですが、ついにその時は訪れます。エジソンは1931年10月18日に糖尿病にて亡くなりました。

エジソンの葬儀の日に行われた事

エジソンの葬儀は10月21日に行われます。葬儀にはアメリカ国内だけでなく、世界各国から多くの人達が集まりました。エジソンの葬儀が行われた日の夜、全米ではエジソンを讃えとある事が行われます。

それはアメリカ中の電灯を消す事でした。午後10時から1分間、アメリカ全土の電灯は消え、辺りは真っ暗になったのです。

もしエジソンが白熱電球の改良に取り組まず、電気産業にも携わる事がなければ、私達の生活に電気が通る事はなかったかもしれません。エジソンに対する弔いと敬意を持って、アメリカ国民は電灯を消したのです。

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5 COMMENTS

赤司征十郎

エジソンは、世界中の英雄だと思ったし、名前は知っていたけど詳しくしれてよかった

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