ガリレオってどんな人だったの?」
「どんな功績を残したの?」
「裁判にかけられた理由がわからない…」
ガリレオ・ガリレイは、17世紀に活躍した物理学者・天文学者です。「仮説を実験で証明する」という手法を取り入れ、「科学」という概念を体系化。「地動説」や太陽の黒点を発見するなどの功績から「近代科学の父」とも呼ばれています。

ガリレオなくして現代はなかったといっても過言ではないほどに、偉大な功績をあげている人物のため名前を知っている人も多いのではないでしょうか。
しかし名声や数々の功績を残している一方、ガリレオ自身がどのような生涯を送ったのかは詳しく知らないですよね。また、偉人として知られるガリレオの具体的な功績や死因が気になっている人もいるでしょう。
そこで今回は、天才学者ガリレオ・ガリレイの生涯について解説します。幼い頃読んだガリレオの伝記をきっかけに、望遠鏡を買ってもらった筆者とともに天才学者の素顔に迫っていきましょう。
ガリレオ・ガリレイとはどんな人物か
名前 | ガリレオ・ガリレイ |
---|---|
誕生日 | 1564年2月15日 |
没日 | 1642年1月8日 |
生地 | トスカーナ大公国領ピサ (現・イタリア) |
没地 | アルチェトリ(現・イタリア) |
配偶者 | マリナ・ガンバ |
埋葬場所 | サンタ・クローチェ聖堂 |
ガリレオ・ガリレイの生涯をハイライト
- 1564年 0歳 ガリレオ誕生
- 1581年 16歳 ピサ大学に入学
- 1589年 26歳 ピサ大学の教授となる
- 1591年 28歳 父・ヴィンチェンツォ死去
- 1609年 44歳 望遠鏡を自主製作。数々の研究成果を残す
- 1615年 50歳 地動説をめぐり、修道会と論争になる
- 1616年 51歳 第1回異端審問所審査で地動説の注意を受ける
- 1633年 68歳 第2回異端審問所審査で軟禁刑を言い渡される
- 1642年 77歳 アルチェトリにて没
科学的手法を樹立!ピサの斜塔での大実験

ガリレオは天文学や物理学で様々な功績を残します。背景には「科学的手法」を取り入れた事が大きいのです。ガリレオが生きた時代の学問は客観性や論理的な思考を伴ったものではありませんでした。
例えば中世の大学では「観察を経て古典に書かれたものと違う結果が出た」時には、古典の結果が正しいとされていました。当時はルネサンスによる古典古代の復興が盛んで、過去の産物が正しいと考えられていたのです。
ガリレオは実験や観察を取り入れ、客観的なデータを集める方法を取り入れました。ガリレオは理論に基づく研究を行い、科学という概念を体系化させたのです。ガリレオはこの時代から始まる「科学革命」の主要人物でした。

ガリレオの実験として有名なのはピサの斜塔での大実験でしょう。古代ギリシャの哲学者・アリストテレスは「物体を高いところから落とせば、重たい物は軽い物より早く落ちる」と主張。それは何百年も信じられていました。
ガリレオはピサの斜塔から重さの違う2つの玉を落とし、公開実験をしたとされます。しかしピサの斜塔の実験の話はガリレオの死後64年を経てようやく記述されており、創作の可能性が高いのです。
実際にガリレオが行なったのは「斜めに置いたレールの上で、重さと大きさの違う玉を同時に転がす」という実験です。こちらはその様子を描いた絵画も残存してきます。
敵を作りやすい性格だった?

ガリレオは様々な実験や観察を行うなど、非常に好奇心旺盛でアクティブな性格でした。ただ当時のイタリアは教会の力は絶大でした。教会の教えを受け入れない人は「異端者」と呼ばれ罰を受ける事もあったのです。
ガリレオは頭が良かったものの、ものの言い方がキツい人物でもありました。ガリレオは議論の際に反論や理屈で相手を徹底的に論破しています。ガリレオの言い分は科学が浸透していない時代の中で、少し早すぎたようです。
ちなみにガリレオの母・ジュリアは気難しく気性の激しい女性でした。父・ヴィンチェンツォ・ガリレイは音楽家でありつつ、音楽理論を科学的に体系した人物です。ガリレオの性格は両親の性質を強く受け継いだものだったのです。
この敵を作りやすい性格は、後に大きな火種になるのでした。
地動説を唱え、宗教裁判にかけられた

ガリレオが地動説を唱えて宗教裁判にかけられた事は有名です。地動説とは「宇宙の中心は太陽で、地球は太陽の周りを回っている」というもの。当時は「太陽は地球の周りを回っている」という天動説が信じられていました。
ただガリレオより前の時代から、コペルニクスという天文学者が地動説を唱えており、ガリレオはその説が正しいと考えていたのです。
ガリレオは1616年に宗教裁判に呼ばれます。この時に地動説は異端とされ、「今後はむやみに地動説を唱えてはいけない」と釘を刺されました。

しかしガリレオは1630年に「天文対話」という本を刊行し、地動説を再度唱えたのです。天文対話には「地動説派・中立派・天動説派」の3人が登場します。そして地動説派の主張に天動説派が論破される内容になっています。
天文対話により天動説は否定されたものの、修道会は納得しなかったのです。ガリレオは1633年にローマ教皇庁に出頭を命じられます。判決は終身刑だったものの、直後に軟禁に減刑。ガリレオは裁判の中で地動説を放棄します。
ちなみに宗教裁判の判決や、その過程には疑問点が多いとされます。一連の裁判はガリレオに不満をもつ勢力によるでっち上げという説もあるのです。
死因は病死?軟禁に失明と不遇の晩年

ガリレオは1642年1月8日に77歳で病死。病名は不明ですが、動悸がして床に就いた後に亡くなったと伝わります。当時としてはかなりの高齢であり、老衰といっても差し支えないかもしれませんね。
1633年の宗教裁判によりガリレオは軟禁の身となり、アルチェトリの別荘で生涯住み続けます。監視が置かれ、散歩以外は外出を禁じられます。そして今までの役職も剥奪されました。
翌年にはガリレオの身の回りの世話をしていた長女が死去。更に1638年頃には両目を失明します。ちなみに失明の原因は太陽などを望遠鏡で見続けた事です。功績とは裏腹にガリレオの晩年は不遇と言わざるを得ません。
ただガリレオは名誉を剥奪されても、視力を失っても、探究心を失う事はありませんでした。ガリレオはオランダで新科学対話という書籍を発刊し、最晩年には振り子時計の考案をしています。
ガリレオの科学への追求は誰も止める事が出来なかったのです。
ガリレオ・ガリレイの功績
功績1「望遠鏡を改良!衛星や月のクレーターを発見する」

ガリレオは天文学の分野で多大なる功績を残しました。1608年に望遠鏡の特許申請が行われると、ガリレオはそれを改良。毎日のように月や惑星、太陽を望遠鏡で覗き、様々な発見をしたのです。その中のごく一部を紹介します。
- 月の凸凹
- 木星の衛星
- 金星の満ち欠け
- 太陽の黒点
- 天の川が無数の星の集まりである事
当時のキリスト教的価値観では天動説が当然と信じられていました。しかしガリレオのひと昔前のポーランドの天文学者・コペルニクスが1543年に太陽が宇宙の中心であるという「地動説」を提唱していました。
望遠鏡による研究をする前の1597年の時点で、ガリレオはケプラーに地動説の正当性を手紙で記しています。ガリレオは一連の研究を経て、コペルニクスの提唱する地動説が正しいと確信しました。
世界をひっくり返すほどの発見だったものの、ガリレオは厳格なカトリック教徒。聖書に書かれている天動説事を否定する事は、許されない事でした。望遠鏡にのる研究はガリレオの長い闘いのきっかけになるのです。
功績2「振り子や落下の法則を発見」

ガリレオは物理学の分野でも功績を残しています。功績は以下の通りです。
- 振り子の法則(同じ長さの振り子が揺れている時は、大きく揺れても小さく揺れても速度は同じ)
- 落下の法則(物体が落下する時間は、その物質の重さに依存しない。更に落下速度の計算式の確立)
- 熱膨張(液体の密度は温度によって変化する)
- 磁気現象や古典力学、音響振動、光速度の計算方法 などです。
ガリレオはピサ大聖堂で揺れているシャンデリアを見て、振り子の法則を発見したとされていました。ただこれは後世の創作と言われ、どういう経緯でこの法則を発見したのかは不明です。
振り子の法則により後年には振り子時計が考案され、熱膨張をもとに温度計が後に発明されています。更にガリレオは発見した磁気現象や古典力学は、その後の物理学の出発点となりました。
功績3「軍事用コンパスを発明 」

マイナーなところではガリレオは軍事用コンパスを発明しています。当時の大砲は火薬と仰角により着弾点が決められていました。しかし正確な着弾点を定めるには、何度も試し打ちをして微調整をするしかなかったのです。
ガリレオの発明した軍事用コンパスは「この位置に着弾させるには、これだけの仰角と火薬が必要」という事がすぐに分かります。何度も試し打ちをする必要がなくなったのです。ガリレオは軍事用コンパスの発売にこぎつけます。
ガリレオがしたたかだったのは「使い方をレクチャーできるのは最初はガリレオだけだった」という点です。ガリレオは「軍事用コンパスを作ったのはガリレオ」という認識を生ませ、自分の名前を宣伝したのです。
当時のガリレオは経済的にも困窮していました。各地に軍事用コンパスの使い方を指導するにつれ、トスカーナ大公の手に渡ります。そこで大公はガリレオの聡明さに目をつけ、我が子の家庭教師にガリレオを任命します。
そのコジモ2世はガリレオの生涯の庇護者となり、ガリレオの研究にも大きな影響を与えました。
ガリレオ・ガリレイの名言
見えないと始まらない。
見ようとしないと始まらない。
アリストテレスが述べた事が全て真実だと盲信された時代の中、ガリレオは実験や観察を重ねて事実を発見しました。疑問を持ち自分で調べる事で、初めて道が開ける。ガリレオは探究心の大切さを教えてくれます。
私はあまりに深く星を愛しているがゆえに、夜を恐れたことはない。
夜が来ると不安に感じる人も多いでしょう。しかしガリレオにとっては望遠鏡で星を覗く至福の時間です。ガリレオの星を愛する気持ちがよく分かる名言ですね。
それでも地球は動いている。
こちらは宗教裁判で判決が言い渡された時に呟いたとされます。しかし実際には言っていないという説が濃厚です。ただガリレオを象徴する言葉なので、紹介させていただきました。
ガリレオ・ガリレイにまつわる逸話
逸話1「ガリレオの名前に秘められた秘密」

ガリレオ・ガリレイという特徴的な名前。皆さんはどちらが名前か姓か分かりますか?ガリレオが名前でガリレイが姓になります。アルファベットではGalileo Galileiであり、一文字しか違いがありません。
ガリレオが生まれたトスカーナ地方では、長男の名前を「姓を単数形」にする習慣がありました(姓の単数形というのはよく分かりませんが) 。ちなみにガリレオという言葉自体には「キリスト教徒」という意味があります。
キリスト教徒と名付けられたガリレオが、後に宗教裁判にかけられる。何とも皮肉なお話です。
ちなみにイタリアでは、偉大な人物を名前で呼ぶ習慣があります。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの苗字はレオナルドですが、ダ・ヴィンチと呼ぶ事が一般的です。ガリレオもイタリアでは偉大な人物とされている事がわかります。
逸話2「ガリレオの罪は350年を経て冤罪となった」

裁判を経て有罪となったガリレオですが、死後も罪は赦されませんでした。ガリレオの庇護者だったフェルディナンド2世(コジモ2世の息子)は、ガリレオの葬儀を延期しています。
これは「カトリック教徒だったガリレオを異端者として葬る事は忍びない」とする気持ちがありました。しかし埋葬の許可が下りたのは1737年と、ガリレオの死から150年後です。
ガリレオの地動説は教会による否定とは裏腹に、一般に浸透していきます。やがてニュートンが1687年「万有引力」の法則を発見。惑星運動も太陽の引力により行われるものと証明し、地動説は疑いなき真実と分かったのです。
ガリレオの裁判については、1965年にローマ教皇・パウロ6世が言及した事で見直しが行われます。1992年にヨハネ・パウロ2世は裁判が誤っていた事を正式に謝罪。実にガリレオの罪は350年を経て冤罪だと判断されたのです。