ガリレオ・ガリレイはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績も紹介】

敵を作りやすい性格だった?

知られざるガリレイの性格とは?

ガリレオは様々な実験や観察を行うなど、非常に好奇心旺盛でアクティブな性格でした。ただ当時のイタリアは教会の力は絶大でした。教会の教えを受け入れない人は「異端者」と呼ばれ罰を受ける事もあったのです。

ガリレオは頭が良かったものの、ものの言い方がキツい人物でもありました。ガリレオは議論の際に反論や理屈で相手を徹底的に論破しています。ガリレオの言い分は科学が浸透していない時代の中で、少し早すぎたようです。

ちなみにガリレオの母・ジュリアは気難しく気性の激しい女性でした。父・ヴィンチェンツォ・ガリレイは音楽家でありつつ、音楽理論を科学的に体系した人物です。ガリレオの性格は両親の性質を強く受け継いだものだったのです。

この敵を作りやすい性格は、後に大きな火種になるのでした。

地動説を唱え、宗教裁判にかけられた

地動説の図

ガリレオが地動説を唱えて宗教裁判にかけられた事は有名です。地動説とは「宇宙の中心は太陽で、地球は太陽の周りを回っている」というもの。当時は「太陽は地球の周りを回っている」という天動説が信じられていました。

ただガリレオより前の時代から、コペルニクスという天文学者が地動説を唱えており、ガリレオはその説が正しいと考えていたのです。

ガリレオは1616年に宗教裁判に呼ばれます。この時に地動説は異端とされ、「今後はむやみに地動説を唱えてはいけない」と釘を刺されました。

異端審問を受けるガリレオ

しかしガリレオは1630年に「天文対話」という本を刊行し、地動説を再度唱えたのです。天文対話には「地動説派・中立派・天動説派」の3人が登場します。そして地動説派の主張に天動説派が論破される内容になっています。

天文対話により天動説は否定されたものの、修道会は納得しなかったのです。ガリレオは1633年にローマ教皇庁に出頭を命じられます。判決は終身刑だったものの、直後に軟禁に減刑。ガリレオは裁判の中で地動説を放棄します。

ちなみに宗教裁判の判決や、その過程には疑問点が多いとされます。一連の裁判はガリレオに不満をもつ勢力によるでっち上げという説もあるのです。

死因は病死?軟禁に失明と不遇の晩年

1638年に発刊された新科学対話

ガリレオは1642年1月8日に77歳で病死。病名は不明ですが、動悸がして床に就いた後に亡くなったと伝わります。当時としてはかなりの高齢であり、老衰といっても差し支えないかもしれませんね。

1633年の宗教裁判によりガリレオは軟禁の身となり、アルチェトリの別荘で生涯住み続けます。監視が置かれ、散歩以外は外出を禁じられます。そして今までの役職も剥奪されました。

翌年にはガリレオの身の回りの世話をしていた長女が死去。更に1638年頃には両目を失明します。ちなみに失明の原因は太陽などを望遠鏡で見続けた事です。功績とは裏腹にガリレオの晩年は不遇と言わざるを得ません。

ただガリレオは名誉を剥奪されても、視力を失っても、探究心を失う事はありませんでした。ガリレオはオランダで新科学対話という書籍を発刊し、最晩年には振り子時計の考案をしています。

ガリレオの科学への追求は誰も止める事が出来なかったのです。

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2 COMMENTS

ふとうこう

学校の授業で偉人を調べる授業があった。そこで「ガリレオガリレイ」を調べようとしたとき、年表も、名言も、功績もあり、便利だった。しかし、いない偉人もあり、ほかの人も増やしてほしい。

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