ガリレオ・ガリレイの生涯年表
1564〜1574年 – 0〜9歳「ガリレオ・ガリレイ誕生」
ガリレオ・ガリレイ誕生
ガリレオは1564年にトスカーナ公国のピサで生まれます。ガリレイ家は13世紀から続く名家でしたが、父・ヴィンチェンツィオの代から没落。父は音楽教師として著作も残すものの、生活は大変で毛織物の売買も行なっていました。
ガリレオには7人の兄妹がいたものの、3人は若くに夭折しています。ちなみに生き残った弟・ミケランジェロは父と同じく音楽方面で活躍。リュート奏者として現在にも名を残しています。
家族でフィレンツェへ
1574年にガリレイ家はフィレンツェに移り住みました。ガリレオはサンタ・マリア修道院の付属学校に進学しています。この頃は数学や物理ではなく、文法、論理学・修辞学などを学んでいました。
1574〜1585年 – 9〜20歳「数学の魅力にとりつかれる」
ピサ大学に進学
ガリレオは1581年、17歳でピサ大学に進学。父はガリレオを医者の道に進ませたかったようです。ただこの頃の医学とは現在のようなものではありません。修道院などに保管された文献をなぞった民間療法レベルのものでした。
数学を学ぶ
ガリレオは1585年の春にピサ大学を退学します。きっかけはトスカーナ宮廷付きの数学者オスティリオ・リッチとの出会いでした。リッチの数学の授業を受ける機会のあったガリレオは数学の魅力に取り憑かれます。
文献をなぞる授業ではなく、理論と実践が伴った数学こそが「近代科学の父・ガリレオ」の原点でした。ガリレオはリッチの弟子となり、古代エジプトのユークリッドや、アルキメデスなどを学んでいきます。
1586〜1589年 – 21〜24歳「科学論文・小天秤を発表」
科学論文・小天秤を発表
ガリレオは1586年に「小天秤」を発表。これはアルキメデスが「王冠が純金なのか、金と銀の合金であるか」を調べる為に用いられたとされる方法が誤りである事を指摘し、アルキメデスが本当に用いた方法の再現を目指したものでした。
翌年には「固体の重心についての定理」を発表。これらの論文によりガリレオに注目が集まり、当時随一の数学者だったクリストファー・クラヴィウスの知己を得る事となりました。
1589年 – 24歳「ピサ大学数学教師となる」
ピサ大学数学講師となる
クラヴィウスの斡旋のおかげで、ガリレオは1589年にピサ大学数学講師となります。ちなみに任期は3年です。この頃のガリレオは当時「絶対に正しい」とされたアリストテレスの物体の落下に関する説の反論を試みています。
ただ当時のピサ大学では「休講すると理由の有無に関係なく年俸を一部返納する」と決まりがありました。この頃母の容体が悪かった為、度々授業を休講にせざるを得なかったガリレオは、契約通りの年俸を貰えた事はありません。
これらの不満からガリレオは大学での素行は悪かったようです。教授たちを嘲笑する詩を書いたり、大学で義務付けられていたトーガという上着を着用しなかった事が伝わっています。敵を作る性格はこの頃から健在でした。
父の死
1591年には父・ヴィンチェンツォが死去。ガリレオが母、弟、2人の妹を養います。1592年にピサ大学の職が任期切れになると、ガリレオはヴェネツィア共和国のパドヴァ大学数学教授に就任しました。
1590〜1599年 – 25〜34歳「パドヴァ大学での生活」
困窮の日々
ここはピサ大学より三倍ほど給料が良かったものの、パドヴァ大学数学教授の給与は哲学教授の10分の1。
経済的に困窮していた日々は続きました。更にガリレオを追い込んだのは、妹の結婚資金です。
当時は結婚の際に、新婦の実家は新郎の実家に多額の持参金を渡す習わしがありました。ガリレオは持参金が工面出来ず、新郎の実家から訴訟を起こされそうになっています。
ガリレオのお金集め
経済的に困窮していたガリレオですが、様々な妙案を考えて生活資金を蓄えます。
- 庭園つきの大きな家を借り、学生向けのシェアハウス・ビジネスを始める
- 別料金の追加でガリレオが直々に家庭教師となり、授業で教えない内容も教える
- 軍事用コンパスを発明し、レクチャーをして自分の名を売る
この頃のガリレオは困窮しつつも、充実した日々を送っていました。落下の研究を行ったのもこの頃です。また1599年頃にマリナ・ガンバと結婚し、1男2女をもうけています。
学校の授業で偉人を調べる授業があった。そこで「ガリレオガリレイ」を調べようとしたとき、年表も、名言も、功績もあり、便利だった。しかし、いない偉人もあり、ほかの人も増やしてほしい。
どうゆうこと?