1600〜1608年 – 35〜43歳「トスカーナ大公の庇護を得る」
軍事用コンパスの功績
1601年には軍事用コンパスがトスカーナ大公フェルディナンド1世の手に渡ります。ガリレオはフェルディナンド1世の子息・コジモ二世の家庭教師に任命されると共に、大公の庇護を受けました。生活はかなり改善されたのです。
そして1608年にはフェルディナンド1世が亡くなり、コジモ二世がトスカーナ大国公となります。ガリレオはそれ以降、大公のサポートを受けながら研究を続けていきました。
天文学への興味
ちなみに1604年にガリレオが天文学に興味を持つ出来事が起こります。それはへびつかい座に現れた新星でした。アリストテレスによれば、宇宙は月より下の卑賤な月下界、月より上の高貴な月上界からなるとされています。
この新星が月と比較してどの位置にあるのか、という事は天文学だけでなく、アリストテレス的価値観を変えてしまう出来事です。この新星については当時、様々な議論が行われていました。
ガリレオは研究の末に「この新星が月よりも上にある事」を発見。この新星は現在ではケプラーの超新星と呼ばれています。ガリレオはこの新星の研究から天動説、地動説のどちらが正しいのかを突き止める事が出来ると考えたのです。
1609〜1610年 – 44〜45歳「望遠鏡による様々な発見」
望遠鏡の改良
1608年にはオランダで望遠鏡が発明されます。翌年にはガリレオ自身が望遠鏡を改良し、功績1「望遠鏡を改良!衛星や月のクレーターを発見する」で紹介した通り、天体観測を経て様々な事を発見します。
ガリレオは望遠鏡の倍率を、3倍から20倍へと改良。この功績からガリレオはヴェネツィア政府からパドヴァ大学での終身雇用と、年俸の倍増を約束されます。
ただこの頃からガリレオは故郷に戻る事を考えていました。1610年には懐かしきピサ大学の教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命される事になり、母国であるトスカーナ大公国・フィレンチェに戻りました。
栄転か暗転か
ただガリレオがヴェネツィア共和国のパドヴァ大学から、トスカーナ大公国のピサ大学に移る事を多くの友人は心配していました。トスカーナ大公国はヴェネツィア共和国よりもローマ教皇庁の影響力が強い土地でした。
ガリレオは反論や理屈で相手を徹底的に論破する性格。そんなガリレオが宗教的権威の強い土地柄で揉め事を起こすのではないかと心配したのでした。そしてその予感は的中するのです。
1611〜1621年 – 46〜56歳「第1回異端審問所審査」
第1回異端審問所審査
1615年にガリレオは地動説をめぐり、ドミニコ会修道士ロリーニと論争になります。科学と宗教は区別して考えるべきと考えるガリレオでしたが、ローマ教皇庁はそうは考えなかったのです。
ガリレオは当時の手紙にこのように残しています。
『聖書』の章句の表面にとらわれ、その言葉を字句通りに受け取ると、 かえってその真意から外れてしまうことがある。
1616年には第1回異端審問所審査が開催され、ガリレオは地動説を唱えないように注意を受けました。ちなみにこの裁判の被告はガリレオではなく「コペルニクスが唱えた地動説」です。
ローマ教皇達は「地動説は異端だが、仮説として論ずるなら問題はない」と判断しています。そのため、ガリレオの本が禁書になる事も罪に問われる事もありませんでした。
1621〜1632年 – 56〜67歳「偽金鑑識官と天文対話」
新教皇の誕生とローマ訪問
1623年にガリレオの友人だったマッフェオ・バルベリーニ枢機卿が、新たなローマ教皇・ウルバヌス8世となりました。ガリレオは祝意を述べる為、1624年4月にローマに赴きます。
1621年にはガリレオの庇護者だったコジモ2世が死去。ガリレオは自分の立場を強くするため、教皇の庇護を得ようとしたとされます。ガリレオは執筆した書籍・偽金鑑識官をウルバヌス8世に献上し、大いなる賞賛を得ます。
ガリレオは「宇宙の体系や構成について」の本を執筆したいとウルバヌス8世に打診。そして「宗教観を否定しない範囲」での執筆の許可を得たのです。この頃のウルバヌス8世はガリレオの大いなる庇護者でした。
天文対話
1632年には天文対話が、教皇庁の許可を受けて出版されます。この書籍により天動説は確かな理論をもって否定されます。
出版後に天文対話の中に登場する「物分かりの悪い天動説論者はウルバヌス8世」という讒言がありました。ガリレオにその気はなかったと思われますが、ウルバヌス8世は天文対話の内容に激怒したのです。
1633〜1638年 – 68〜73歳「第2回異端審問所審査」
第2回異端審問所審査
この頃にはガリレオに反感を持つ人も多くいました。1633年2月から第2回異端審問所審査が開催され、6月22日に判決が言い渡されます。判決は以下の通りでした。
- 天文対話を禁書とする
- 生涯にわたり投獄される
- 贖罪のために 3年間にわたって毎週1回、7つの悔罪詩篇を唱える
なお裁判の直後に投獄は免除され、ガリレオはフィレンツェ郊外の別荘に戻る事が許されます。ガリレオは宗教裁判の圧力に負け、絶対に正しいと思っていた地動説を、自ら否定する事になったのです。
新科学対話
晩年のガリレオには不幸が続きました。1634年に長女マリアが34歳の若さで死去し、1638年には両目を失明します。ただガリレオはこの年に新科学対話をオランダから発表しています。
この書籍では天文学の事には一切触れておらず、内容は物理学に関わるものでした。科学への探究心は衰える事はなかったのです。
1639〜1942年 – 74〜77歳「ガリレオ・ガリレイ死去」
ガリレオ・ガリレイ死去
1642年1月8日にガリレオは病死。当時としては高齢の77歳という大往生でした。
ガリレオの死は多くの人達を悲しませます。ローマ教皇庁の権力はトスカーナ大公国では大きかったものの、他の国ではそうではありませんでした。
他の国ならガリレオは大いなる賞賛をもって、研究に打ち込めたのかもしれません。
学校の授業で偉人を調べる授業があった。そこで「ガリレオガリレイ」を調べようとしたとき、年表も、名言も、功績もあり、便利だった。しかし、いない偉人もあり、ほかの人も増やしてほしい。
どうゆうこと?