紀貫之とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や子孫も紹介】

紀貫之は、平安時代前期に活躍した歌人です。日本文学史上初となる日記文学「土佐日記」を執筆し、初の勅撰和歌集となる「古今和歌集」の選定にも関与しました。貫之の作品は随筆や女流文学に多大なる影響を与え、現在においても貫之の感性は脈々と受け継がれています。

学校の授業では必ず登場する紀貫之ですが、その生涯については知らない事も多いでしょう。貫之は没落した貴族の家柄。「伝説の歌人」と評されるには並々ならぬ努力を重ねた人物です。また実に儚い晩年を過ごしてもいます。

貫之の生涯を紐解く事で、平安時代における「歌」のあり方を知る事が出来ますし、土佐日記にも違った印象を受けるでしょう。今回は高校の頃に土佐日記に感銘を受けた筆者が、紀貫之の生涯について解説します。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

紀貫之とはどんな人物か

名前紀貫之
誕生日866年もしくは872年
没日945年6月30日?
生地
没地不明
配偶者不明(時文・紀内侍・女子が
子どもとして伝わる)
埋葬場所比叡山中腹の裳立山
(滋賀県大津市)

紀貫之の生涯をハイライト

紀貫之(菊池容斎・画、明治時代)
出典:Wikipedia
  • 866年 紀貫之誕生(872年説あり)
  • 889年頃 「寛平御時后宮歌合」に参加
  • 905年 「古今和歌集」の編纂を命じられる
  • 930年 土佐国の国司に任命される 「新撰和歌集」の編纂を行う
  • 934年 土佐守の任を終えて帰洛 後に「土佐日記」を完成させる
  • 945年 木工権頭となる 間も無く死去

日本文学史を代表する歌人

和歌には日本人の心が込められている
出典:Wikipedia

紀貫之は平安前期から中期に活躍した「和歌を詠む歌人」です。和歌とは「漢詩」の対になる日本古来の大和歌(長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌)の事を指しました。短歌はその中で「五・七・五・七・七」で区切られた歌を指します。

平安時代には長歌・旋頭歌・仏足石歌は廃れ、短歌のみが作られます。次第に「和歌=短歌」という考えが定着しました。平安時代に和歌は隆盛を迎え、歌会が多く開かれた他、貴族の政治的な駆け引きや、男女の恋愛にも用いられたのです。

古来には「言葉には魂が宿る」という言霊思想がありました。優れた和歌には強い力があったとされ、鎮魂や争いを鎮める為に和歌が使われています。貫之は優れた歌人として、当時の貴族界で大きな尊敬を集めました。

「袋草紙」という書物には、貫之の和歌で幸運がもたらされたエピソードが残っています。和歌は現在の私達が思う以上に神聖で、大きな影響力を持ったものだったのです。

日本初の日記文学「土佐日記」を執筆

藤原定家によって書写された土佐日記
出典:Wikipedia

貫之は934年頃に「土佐日記」を執筆します。この作品は貫之が土佐国(現・高知県)で行政官である国司の役目を終えて、京都に帰る55日間の様子を日記風のフィクションにした作品です。現在の日記文学の先駆け的作品になります。

土佐日記を語る上で欠かせないのが、冒頭のフレーズでしょうか。

男もすなる日記(にき)といふものを、女(をむな)もしてみむとてするなり。

現代語に訳すと「男がする日記というものを、女の私もしてみようと思う」となります。当時は男性が日記を書く時は漢文体を用いました。反対に女性(女官)は仮名文字を使っていたのです。

女官の絵
出典:Wikipedia

貫之は仮名文字の方が心情を表現出来ると判断したのかもしれません。貫之は冒頭で女のフリをするものの「貫之が書いた」と分かるように書いています。そして貫之ならではの和歌や、ユーモアを交えたお話が盛り込まれているのです。

作中には「娘を失って悲しみにくれる国司」が登場し、それが貫之である事が読み手に分かるようになっています。貫之が土佐日記を書いた意図は不明なものの、娘を失った悲しみを仮名文字で表現する為に土佐日記を執筆したのかもしれません。

古今和歌集を編纂する

古今和歌集の巻第一春歌上の冒頭
出典:Wikipedia

貫之は日本で最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の編纂に携わりました。勅撰和歌集とは天皇や上皇の命令で編纂された和歌集です。編纂を命じたのは第60代天皇である醍醐天皇であり、完成したのは905年の事でした。

醍醐天皇は万葉集(759〜780年)以前から残されている大量の和歌から、特に優れた作品を選んで編纂しようとしたのです。編纂の撰者に選ばれたのが「紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑」でした。

紀友則が志半ばで没すると、貫之が中心人物として活躍。勅撰和歌集は全20巻、総勢1111首の大作で、貫之の和歌は102首も収録されています。その他には紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑の選者の他、在原業平の歌も多く収録されました。

古今和歌集では四季や恋愛の和歌がジャンル分けされています。更に掛詞(同じ言葉に2つの意味を掛け合わせる)等の技法を取り入れた和歌が多く、気持ちを正直に表現した万葉集よりは知的な印象を受けます。

古今和歌集は多くの作品に影響を与えました。枕草子では「古今和歌集を暗唱が貴族の教養」と記され、源氏物語でも多くの和歌が引用されています。当然、編者の中心人物として活躍した貫之は、大いに賞賛されたのです。

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