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紀貫之とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や子孫も紹介】

紀貫之は、平安時代前期に活躍した歌人です。日本文学史上初となる日記文学「土佐日記」を執筆し、初の勅撰和歌集となる「古今和歌集」の選定にも関与しました。貫之の作品は随筆や女流文学に多大なる影響を与え、現在においても貫之の感性は脈々と受け継がれています。

学校の授業では必ず登場する紀貫之ですが、その生涯については知らない事も多いでしょう。貫之は没落した貴族の家柄。「伝説の歌人」と評されるには並々ならぬ努力を重ねた人物です。また実に儚い晩年を過ごしてもいます。

貫之の生涯を紐解く事で、平安時代における「歌」のあり方を知る事が出来ますし、土佐日記にも違った印象を受けるでしょう。今回は高校の頃に土佐日記に感銘を受けた筆者が、紀貫之の生涯について解説します。

紀貫之とはどんな人物か

名前紀貫之
誕生日866年もしくは872年
没日945年6月30日?
生地
没地不明
配偶者不明(時文・紀内侍・女子が
子どもとして伝わる)
埋葬場所比叡山中腹の裳立山
(滋賀県大津市)

紀貫之の生涯をハイライト

紀貫之(菊池容斎・画、明治時代)
出典:Wikipedia
  • 866年 紀貫之誕生(872年説あり)
  • 889年頃 「寛平御時后宮歌合」に参加
  • 905年 「古今和歌集」の編纂を命じられる
  • 930年 土佐国の国司に任命される 「新撰和歌集」の編纂を行う
  • 934年 土佐守の任を終えて帰洛 後に「土佐日記」を完成させる
  • 945年 木工権頭となる 間も無く死去

日本文学史を代表する歌人

和歌には日本人の心が込められている
出典:Wikipedia

紀貫之は平安前期から中期に活躍した「和歌を詠む歌人」です。和歌とは「漢詩」の対になる日本古来の大和歌(長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌)の事を指しました。短歌はその中で「五・七・五・七・七」で区切られた歌を指します。

平安時代には長歌・旋頭歌・仏足石歌は廃れ、短歌のみが作られます。次第に「和歌=短歌」という考えが定着しました。平安時代に和歌は隆盛を迎え、歌会が多く開かれた他、貴族の政治的な駆け引きや、男女の恋愛にも用いられたのです。

古来には「言葉には魂が宿る」という言霊思想がありました。優れた和歌には強い力があったとされ、鎮魂や争いを鎮める為に和歌が使われています。貫之は優れた歌人として、当時の貴族界で大きな尊敬を集めました。

「袋草紙」という書物には、貫之の和歌で幸運がもたらされたエピソードが残っています。和歌は現在の私達が思う以上に神聖で、大きな影響力を持ったものだったのです。

日本初の日記文学「土佐日記」を執筆

藤原定家によって書写された土佐日記
出典:Wikipedia

貫之は934年頃に「土佐日記」を執筆します。この作品は貫之が土佐国(現・高知県)で行政官である国司の役目を終えて、京都に帰る55日間の様子を日記風のフィクションにした作品です。現在の日記文学の先駆け的作品になります。

土佐日記を語る上で欠かせないのが、冒頭のフレーズでしょうか。

男もすなる日記(にき)といふものを、女(をむな)もしてみむとてするなり。

現代語に訳すと「男がする日記というものを、女の私もしてみようと思う」となります。当時は男性が日記を書く時は漢文体を用いました。反対に女性(女官)は仮名文字を使っていたのです。

女官の絵
出典:Wikipedia

貫之は仮名文字の方が心情を表現出来ると判断したのかもしれません。貫之は冒頭で女のフリをするものの「貫之が書いた」と分かるように書いています。そして貫之ならではの和歌や、ユーモアを交えたお話が盛り込まれているのです。

作中には「娘を失って悲しみにくれる国司」が登場し、それが貫之である事が読み手に分かるようになっています。貫之が土佐日記を書いた意図は不明なものの、娘を失った悲しみを仮名文字で表現する為に土佐日記を執筆したのかもしれません。

古今和歌集を編纂する

古今和歌集の巻第一春歌上の冒頭
出典:Wikipedia

貫之は日本で最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の編纂に携わりました。勅撰和歌集とは天皇や上皇の命令で編纂された和歌集です。編纂を命じたのは第60代天皇である醍醐天皇であり、完成したのは905年の事でした。

醍醐天皇は万葉集(759〜780年)以前から残されている大量の和歌から、特に優れた作品を選んで編纂しようとしたのです。編纂の撰者に選ばれたのが「紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑」でした。

紀友則が志半ばで没すると、貫之が中心人物として活躍。勅撰和歌集は全20巻、総勢1111首の大作で、貫之の和歌は102首も収録されています。その他には紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑の選者の他、在原業平の歌も多く収録されました。

古今和歌集では四季や恋愛の和歌がジャンル分けされています。更に掛詞(同じ言葉に2つの意味を掛け合わせる)等の技法を取り入れた和歌が多く、気持ちを正直に表現した万葉集よりは知的な印象を受けます。

古今和歌集は多くの作品に影響を与えました。枕草子では「古今和歌集を暗唱が貴族の教養」と記され、源氏物語でも多くの和歌が引用されています。当然、編者の中心人物として活躍した貫之は、大いに賞賛されたのです。

紀貫之の家系図・子孫は?孫の代で血筋は途絶えた

紀氏の祖・紀角の父親である竹内宿禰
出典:Wikipedia

貫之は3人の子ども(時文・紀内侍・女子)がいましたが、娘の1人は若くして死去。時文は「後撰和歌集」の撰集に携わるなど、文化面で功績を残しています。ただ歌集などは伝わっておらず、歌の才能は貫之には一歩及ばなかったようです。

時文は4人の男子をもうけますが、それ以降の記録は一切ありません。系譜上は孫の代で貫之の血筋は断絶しています。ただ当時は記録も曖昧な時代です。もしかしたら貫之の子孫は現在も続いているのかもしれません。

ちなみに紀氏のルーツは大和国(現・奈良県)の地方豪族です。また武内宿禰の子「紀角」が始祖とされているものの、伝説も多く真偽は不明です。

紀氏は武門として活躍した家柄ですが、平安時代になり藤原家が台頭するにつれ影が薄くなりました。貫之が生まれた頃には紀氏は没落し、政治・軍事面で活躍する機会はほぼ失われてしまいます。

貫之は文化面で多大なる影響を与えた人物ですが、古今和歌集の編纂に関与した紀友則は貫之の従兄弟にあたる人物です。貫之の時代には紀氏は文化面で頭角を現すようになりました。

紀貫之の代表作品

貫之の愛した吉野川
出典:Wikipedia

古今和歌集へ入集している作品

貫之の和歌は古今和歌集に102首が勅撰されます。今その中でも特に有名な和歌を解説していきます。

袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらん

現代語訳は「去年の夏に納涼のために訪れた水辺の水が、冬になると凍ってしまった。立春の今日、風が吹いてその氷を溶かしているのだろう」となります。

納涼の夏の記憶を振り返りつつ、冬の寒さと春の訪れを和歌の中に表現しています。たった31文字の中に日本の四季をうまく表現していますね。

霞たち このめも春の 雪ふれば 花なきさとも 花ぞちりける

現代語訳は「霞がたち、木々の芽もふくらむ春になったのに雪が降るのならば、まだ花の咲かないこの里にも、春の淡雪が花と散っていることよ」となります。

春になったのにまだ雪が降っているという季節の遅れを、むしろ美しさに昇華した歌です。また「春」は季節の「木の芽の春」と「木の芽の張る」の掛詞になっています。

吉野川 いはなみたかく 行く水の はやくぞ人を 思ひそめてし

現代語訳は「吉野川(奈良県の川)の岩を打つ浪が、高く立つほど激しく流れる水のように、まだ見たこともないあの人を、こんなに激しく思い始めてしまった」となります。

こちらは古今和歌集の中の「恋歌」に収録されています。貫之は吉野川の激しい川の流れと恋愛感情を重ね合わせたのです。

この「はやくぞ」は「顔も見ていない人に恋をしているという気持ちのはやさ」と、「情熱を激しく燃やしている」という両方の意味で捉える事が出来ます。

古今和歌集へ入集していない作品

続いて古今和歌集に収録されていない作品について解説していきましょう。

手に結ぶ 水に宿れる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ

現代語訳は「水に映っている月の影を掬う(すくう)ように、この世はあるかなきかといった、本当に儚い世の中であった」となります。

貫之の辞世の句です。貫之は土佐日記の執筆や、古今和歌集の編纂などの一大事業を成し遂げました。しかし貫之の心境は「やり遂げた事」よりも「虚無感」が優っています。

貫之がなぜ後悔や虚無感を和歌にしたのでしょうか。それは人生年表で紐解いていきます。

紀貫之の功績

功績1「屏風歌として大成し、歌人の社会的地位を高める」

貫之は屏風の絵に合わせて歌を詠んだ
出典:Wikipedia

貫之が最初に残した功績は、歌人の社会的地位向上です。貫之の生きた時代、和歌は貴族の「嗜み(たしなみ)」でした。貫之も歌人であり貴族でしたが、没落した一族だった為に出世は望めなかったのです。

そんな貫之が才能を発揮したのが「屏風歌」の才能でした。800年代後半から貴族の中で「屏風に絵を描いて、それをみて楽しむ」という屏風絵が大流行。やがて屏風絵に合わせて和歌を詠む「屏風歌」という文化が生まれたのです。

貫之はこの屏風歌の担い手として人気を博し、余興や歌会に招かれます。貫之は掛詞などの洒落た技法を使った和歌が得意でした。屏風歌師としての報酬もあったとされ、歌を詠む事が1つの仕事になったのです。

貫之は歌詠みとして確固たる地位を築くと共に、歌人としての社会的地位を高めました。「和歌で食べて行く事が出来る」という先例を作った貫之は、没落した貴族にとっては希望だったのかもしれません。

功績2「古今和歌集の序文・仮名序を執筆」

仮名序
出典:Wikipedia

古今和歌集には和歌のみが勅撰されているのではありません。平仮名で書かれた「仮名序」と漢文で書かれた「真名序」という序文があります。「一般的には巻頭に仮名序→和歌→巻末に真名序」とされますが、学術的な順序は定まっていません。

この仮名序を執筆したのが紀貫之です。仮名序は単なる序文ではありません。和歌の本質、和歌のあるべき姿、和歌の将来像について貫之なりの解釈が述べられています。仮名序の原文は以下の通りです。その一部を引用してみましょう。

やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

現代語に訳すと「和歌は人の心をもとにして沢山の言葉になったもの。世の中に生きている人は色々な事が沢山ある。心に思う事、見るものや聞くものを言葉にして表現する」というものです。仮名序では和歌のあり方が論じられています。

平安時代に隆盛した和歌ですが、その本質について考えて論述したのは貫之が初めてでした。仮名序は歌学(和歌についての学問)の始まりであり、日本文学において大きな意義があるのです。

功績3「 百人一首にも選ばれる」

百人一首に描かれた紀貫之
出典:Wikipedia

百人一首とは100人の歌人の優れた和歌を1首ずつ集めたものです。鎌倉時代初期に藤原定家が選んだとされます。貫之の和歌は35番であり、貫之の詠んだ和歌は以下の通りです。

人はいさ 心も知らず ふるさとは
花ぞ昔の 香に匂ひける

現代語に訳すと「人の気持ちは分かりません。ただ馴染みの場所の梅の花は、昔と変わらない良い香りで咲き誇っている」となります。この歌は貫之が馴染みの寺である長谷寺(現・奈良県)を訪れた時の歌です。

百人一首は優れた和歌が凝縮されています。室町時代には歌道の入門として普及し始め。江戸時代には「かるた」の形態となり、大人から子供まで楽しめる遊戯にもなったのです。

現在でも百人一首は古典の教材やかるた等、古典を学ぶ入り口として親しまれています。貫之も「百人一首を彩る一人」として、和歌を学ぶあめに

紀貫之の人物相関図

小倉百人一首のかるた一覧
出典:百人一首工房

こちらは小倉百人一首のかるたの一覧です。このイラストに見覚えのある人もいるかもしれません。貫之は35番です。興味がある人はそれぞれの和歌についても調べてみましょう。

紀貫之にまつわる逸話

逸話1「土佐日記には暗号が隠されている?」

足利義政も土佐日記を愛していた
出典:Wikipedia

土佐日記で貫之がなぜ女性のフリをしたのかは謎に包まれています。発表された当時から「土佐日記は貫之が書いたもの」とされており、わざわざ女性のフリをしたと書き記す必要はありません。

実は冒頭の「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」という文章に暗号が隠されているという説があります。鍵を握るのは「掛詞」と「濁点」です。とある部分に濁点を入れると、冒頭の文章は違う文章に早変わりします。

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。

男もず(男文字)なる日記といふものを、女もじ(女文字)てみむとてするなり。

「す」と「し」に濁点を加えると「男文字でる日記を女文字で書いてみる」という意味になります。平安時代は発音としての濁点はありましたが、仮名文字の表記に濁点はありません。文章を詠む時は、文脈で判断して濁点を入れました。

和歌に掛詞を取り入れていた貫之です。土佐日記の冒頭にも工夫が凝らされていても不思議ではありません。貫之は本当に女のフリをしたのか、濁音が表記されていない為にそのように読めるのかは不明です。

ただ言えるのは、濁音がないからこそ、色んな解釈ができるという事ですね。土佐日記の文章にも濁音を織り交ぜる事で違う解釈が生まれるのかもしれません。

逸話2「坂本龍馬は紀貫之の子孫だった?」

坂本龍馬は貫之の子孫を名乗った
出典:Wikipedia

孫の代で絶えたとされる貫之の家系。実は意外な人物が貫之の末裔を名乗っています。それは坂本龍馬です。龍馬は「自分は紀貫之の子孫」だと名乗っていました。

坂本家が土佐藩に提出した資料では「坂本家は紀氏の子孫」と記されていました。また龍馬の墓石には「坂本龍馬・紀直柔」と彫られています。直柔とは龍馬の本名であり、坂本家が紀氏の一族である点は信憑性が高そうです。

ただ坂本家が紀氏の子孫であっても「紀貫之」の子孫なのかは分かりません。坂本家の家伝では「坂本家の始まりは紀氏の一族が和泉国坂本郷に移り住んだ事」と書かれているものの、貫之の一族なのかは分からないからです。

ただ「土佐」日記と表されるように、貫之は土佐で国司として住んでいた時期があります。その期間に紀貫之の子孫が土佐国で生まれていたのかもしれません。 そう考えると歴史のロマンを感じてしまうのは筆者だけでしょうか。

逸話3「正岡子規からは酷評されていた」

明治時代を代表する歌人である正岡子規
出典:Wikipedia

皆から尊敬を集めた貫之ですが、明治時代にとある歌人が貫之を酷評します。それは正岡子規です。子規は貫之の和歌をこのように評しています。

貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候

貫之は下手な歌詠みであり、古今和歌集はくだらぬ歌集だと一蹴したのです。子規は「質素でストレートな表現の多い万葉集」こそが和歌の前提と考えていました。

貫之は屏風歌で大成した人物です。時には余興の場を盛り上げる為に、貴族達に媚びた和歌を詠む事もありました。子規は貫之の歌が「掛詞などの技法ありきの作品」だと判断したのです。

万葉集に古今和歌集。それぞれ呼び方も違いますが、それぞれに違った趣があります。子規は酷評したとしても、貫之の作品が名作である事は間違いありません。

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