930年 – 63歳「土佐国の国司となる」
貫之の選択
延長8年(930年)に貫之は土佐国の国司として、土佐国に派遣されます。国司は現在の知事のような役職です。華美な京で和歌を詠んでいた頃と違い、当時の土佐国はど田舎でした。
土佐国に派遣された同時期に、貫之は醍醐天皇から「新撰和歌集」の編纂を命じられています。歌人として尊敬を集めていた貫之を、わざわざ土佐国の国司に任命する理由が朝廷にはありませんでした。
国司は「その地域一帯の農民から税を徴収し、国に一定額の税を納める」仕事です。その差額が国司の取り分になります。つまり農民から搾取すればするほど、国司は莫大な富を得られたのでした。
貫之は土佐国で莫大な富を得て、一族の再興を果たそうとした可能性があるのです。貫之は長い旅を経て土佐国に辿り着きました。
931〜934年 – 64〜67歳「京に戻る」
京に帰る
承平4年(934年)12月に貫之は土佐国の任期を終えました。この期間に貫之は「新撰和歌集」を完成させる偉業を成し遂げます。しかし最愛の娘をこの地で亡くすなど、辛い事もありました。
貫之は55日の旅を終えて京に戻ります。この期間の旅の様子を漢文ではなく、仮名文字で執筆したのが「土佐日記」なのです。土佐日記は承平5年(935年)頃に完成したとされています。
土佐日記は単なる紀行文ではなくフィクションも多く含まれます。また土佐日記は「土佐で任期を終えた国司と妻、そして一緒に京都に帰る女性」という目線で書かれています。この土佐で任期を終えた国司とは「紀貫之」の事ですね。
935年 – 65歳「土佐日記の意図」
土佐日記で貫之が伝えたかったもの
土佐日記に登場する国司は土佐で娘を亡くし、国司もその妻も悲しみに暮れています。京に戻った時に、国司の妻はこのような歌を詠みました。
なかりしも ありつつ帰る 人の子を ありしもなくて 来るが悲しさ
現代語に訳すと「前は子どもを持っていなかった人も、今では子どもを連れて帰ってきている。しかし私は子どもを亡くして帰って帰ってきた。その悲しさは耐えられるものではない」というところでしょうか。
貫之は自分を第三者に置き換えて、「娘を亡くした悲しみを表現したのです。そのため、堅苦しい漢文ではなく仮名文字を使用したのだと思われます。
貫之は富を得られたのか
貫之は土佐国を出発する前に地元の人達から送別会を開いてもらいます。国司とは税を徴収する側の人であり、農民からは恐れられていました。貫之は清廉謹直な人物で、真面目に国司としての責務を果たしたと思われます。
送別会を開いてもらうという事は、地元の人から慕われていた事が推測されます。おそらく貫之は他の貴族のように「国司として農民を搾取する事」をしなかったのではないでしょうか。
936〜945年 – 65〜74歳「一族の再興を果たせず」
醍醐天皇の崩御
京に戻った貫之でしたが、晩年は侘しいものでした。貫之か土佐国に赴任中に醍醐天皇は崩御。更に貫之を支援した藤原兼輔などの貴族の多くが亡くなっていたのです。貫之は孤立無援の状態になっていました。
また醍醐天皇と藤原兼輔により計画された「新撰和歌集」も、棚上げになります。貫之は「新撰和歌集」が世の中から忘れられる事を惜しみ、序文を書いて世に送り出したのです。
従五位上となる
ついに貫之は天慶6年(943年)に従五位上へと昇進を果たします。従五位下に昇進してから26年の歳月が経っていました。たた上記の位階の階級を見ても分かる通り、貴族の階級としては下段です。
この時点で貫之は既に74歳。貫之は最後まで出世を果たす事が出来なかったのです。
944〜945年 – 75〜76歳「紀貫之死去」
紀貫之死去
やがて貫之は天慶8年(945年)3月に木工権頭という造営や材木採集を司る役所の長官になります。これが貫之の最期の役職でした。それから2ヶ月後の5月に貫之は死去したと伝わっています。
改めて貫之の晩年の和歌を見てみましょう。
手に結ぶ 水に宿れる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ
貫之は現世を「水に映った月であり、儚いもの」と表現しました。貫之は歌人として尊敬を集めたものの、貴族として昇進出来なかった事を悔やんでいたのです。
貫之の遺したもの
さて貫之が日本の文学界に残した影響は計り知れません。貫之が遺した和歌は古今和歌集や自撰家集、その他の歌集を含めて総勢1069首もあります。
土佐日記も含め、これらの作品は残り続けました。そして日本の文学界に大きな影響を与えたのです。昇進や財産よりも大きなものを、貫之は私達に遺してくれたのでした。
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