功績3「 百人一首にも選ばれる」
百人一首とは100人の歌人の優れた和歌を1首ずつ集めたものです。鎌倉時代初期に藤原定家が選んだとされます。貫之の和歌は35番であり、貫之の詠んだ和歌は以下の通りです。
人はいさ 心も知らず ふるさとは
花ぞ昔の 香に匂ひける
現代語に訳すと「人の気持ちは分かりません。ただ馴染みの場所の梅の花は、昔と変わらない良い香りで咲き誇っている」となります。この歌は貫之が馴染みの寺である長谷寺(現・奈良県)を訪れた時の歌です。
百人一首は優れた和歌が凝縮されています。室町時代には歌道の入門として普及し始め。江戸時代には「かるた」の形態となり、大人から子供まで楽しめる遊戯にもなったのです。
現在でも百人一首は古典の教材やかるた等、古典を学ぶ入り口として親しまれています。貫之も「百人一首を彩る一人」として、和歌を学ぶあめに
紀貫之の人物相関図
こちらは小倉百人一首のかるたの一覧です。このイラストに見覚えのある人もいるかもしれません。貫之は35番です。興味がある人はそれぞれの和歌についても調べてみましょう。
紀貫之にまつわる逸話
逸話1「土佐日記には暗号が隠されている?」
土佐日記で貫之がなぜ女性のフリをしたのかは謎に包まれています。発表された当時から「土佐日記は貫之が書いたもの」とされており、わざわざ女性のフリをしたと書き記す必要はありません。
実は冒頭の「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」という文章に暗号が隠されているという説があります。鍵を握るのは「掛詞」と「濁点」です。とある部分に濁点を入れると、冒頭の文章は違う文章に早変わりします。
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。
↓
男もず(男文字)なる日記といふものを、女もじ(女文字)てみむとてするなり。
「す」と「し」に濁点を加えると「男文字でる日記を女文字で書いてみる」という意味になります。平安時代は発音としての濁点はありましたが、仮名文字の表記に濁点はありません。文章を詠む時は、文脈で判断して濁点を入れました。
和歌に掛詞を取り入れていた貫之です。土佐日記の冒頭にも工夫が凝らされていても不思議ではありません。貫之は本当に女のフリをしたのか、濁音が表記されていない為にそのように読めるのかは不明です。
ただ言えるのは、濁音がないからこそ、色んな解釈ができるという事ですね。土佐日記の文章にも濁音を織り交ぜる事で違う解釈が生まれるのかもしれません。
逸話2「坂本龍馬は紀貫之の子孫だった?」
孫の代で絶えたとされる貫之の家系。実は意外な人物が貫之の末裔を名乗っています。それは坂本龍馬です。龍馬は「自分は紀貫之の子孫」だと名乗っていました。
坂本家が土佐藩に提出した資料では「坂本家は紀氏の子孫」と記されていました。また龍馬の墓石には「坂本龍馬・紀直柔」と彫られています。直柔とは龍馬の本名であり、坂本家が紀氏の一族である点は信憑性が高そうです。
ただ坂本家が紀氏の子孫であっても「紀貫之」の子孫なのかは分かりません。坂本家の家伝では「坂本家の始まりは紀氏の一族が和泉国坂本郷に移り住んだ事」と書かれているものの、貫之の一族なのかは分からないからです。
ただ「土佐」日記と表されるように、貫之は土佐で国司として住んでいた時期があります。その期間に紀貫之の子孫が土佐国で生まれていたのかもしれません。 そう考えると歴史のロマンを感じてしまうのは筆者だけでしょうか。
逸話3「正岡子規からは酷評されていた」
皆から尊敬を集めた貫之ですが、明治時代にとある歌人が貫之を酷評します。それは正岡子規です。子規は貫之の和歌をこのように評しています。
貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候
貫之は下手な歌詠みであり、古今和歌集はくだらぬ歌集だと一蹴したのです。子規は「質素でストレートな表現の多い万葉集」こそが和歌の前提と考えていました。
貫之は屏風歌で大成した人物です。時には余興の場を盛り上げる為に、貴族達に媚びた和歌を詠む事もありました。子規は貫之の歌が「掛詞などの技法ありきの作品」だと判断したのです。
万葉集に古今和歌集。それぞれ呼び方も違いますが、それぞれに違った趣があります。子規は酷評したとしても、貫之の作品が名作である事は間違いありません。
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