紀貫之の生涯年表
866年 – 0歳「紀貫之誕生」
紀貫之誕生
紀貫之は京都で誕生したとされています。生まれた年は貞観8年(866年)と貞観14年(872年)の2つの説がありますが、今回は866年に統一していきますね。
没落した紀氏
貫之が生まれた800年代後半は、藤原家北家が台頭し始めていた時代です。紀氏はかつて武人として活躍した一族でしたが、藤原家の台頭と共に没落していきます。
貞観8年(866年)の応天門の変で紀氏の一族である紀夏井や紀豊城が流罪になると、一族の中で「公卿という重役」になる者も途絶えます。貫之が誕生したのは応天門の変がおきた時期でした。貫之は生まれた瞬間から、出世の道は絶たれていたのです。
867〜889年 – 1〜23歳「古今和歌集の編纂」
歌人達の影響を受ける
没落した紀氏一族でしたが、彼らは藤原家より秀でたものがありました。それは和歌の才能です。貫之の周りには父である紀望行(もちゆき)、従兄弟の紀友則(とものり)など、和歌や漢詩に秀でた人物がたくさんいたのです。
幼少期の貫之の情報はほとんど残されていません。ただこの環境が若き貫之に与えた影響は、計り知れないものがあるでしょう。
889〜896年 – 23〜30歳「歌人の才能を受け継ぐ」
若きホープとして名を馳せる
貫之の名前が歴史に登場するのは、寛平初年(889年)頃に開催された「寛平御時后宮歌合」です。この歌合は宇多天皇の母である班子女王の邸で催されたもので、当時としては大規模なものでした。
この歌合は何度か開催されており、貫之は893年頃の歌合に参加しています。貫之は屏風歌で頭角を現しており、声がかかったものと思われます。
宇多天皇の治世
寛平御時后宮歌合にも携わった宇多天皇ですが、彼は藤原家が外戚にいなかった事もあり、藤原家を疎ましく思っていました。宇多天皇は藤原家の代わりに菅原道真を重用。和歌を奨励して天皇家の振興を計ろうとしたのです。
貫之が頭角を現したのは歴史的な背景も重要です。藤原家の衰退に、和歌に理解のある宇多天皇。若き貫之は、一族の再興を夢見たのかもしれません。
897〜905年 – 31〜38歳「古今和歌集の編纂」
醍醐天皇と古今和歌集
寛平9年(897年)に宇多天皇は退位し、醍醐天皇が即位。醍醐天皇も和歌に大いに関心を寄せていました。醍醐天皇は優れた和歌を選んで編纂する一大プロジェクトを推進。紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑の4人に編纂を命じます。
これは当然「古今和歌集」の事であり、延喜5年(905年)に醍醐天皇に奏上されます。編纂の過程で従兄弟の友則は死没し、編纂の中心人物は貫之だったのです。貫之は古今和歌集の序文「仮名序」も執筆し、歌人として尊敬されました。
ちなみに古今和歌集は905年に奏上されていますが、現存する古今和歌集にはそれ以降に詠まれた歌も収録されています。完成後も新たな和歌が収録され続け、最終的な完成は延喜12年(912年)ごろの可能性もあります。
更に仮名序とは別の序文である真名序も謎が多く残されています。古今和歌集はまだまだ解明されていない事も多く、更なる研究が求められますね。
905〜929年 – 38〜62歳「貴族の仲間入りを果たす」
貴族の仲間入りを果たす
貫之は延喜6年(906年)に越前権少掾(御書所預)という役職になり、現在の福井県越前市に派遣されます。更に延喜10年(910年)には、天皇の行動記録を職掌する内記という品官に就任。
とうとう延喜17年(917年)には正五位の下という位階を授けられ、貫之は貴族の仲間入りを果たします。
歌人と位階のギャップ
一方で延喜7年(907年)には宇多上皇の行幸に貫之が随行し、歌や序を供奉した記録が残ります。更に延喜13年(913年)には亭子院歌合に歌人として参加。相変わらず歌人としては引っ張りだこでした。
貴族の仲間入りを果たした貫之ですが、この時点で既に50歳。平安時代の平均寿命を上回っています。やはり紀氏は没落した貴族という事もあり、出世という点では非常に出遅れていました。
歌人としての名声に、現実のギャップに貫之も思う事があったのかもしれません。その後も貫之は図書の整理や歌集の編纂を本務として、年齢を重ねていきました。
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