帰路での出来事を綴った日記
土佐日記が完成したのは934年頃です。貫之は土佐国の役人(国司)でしたが、任期を終えて京に戻る事になりました。貫之は12月21日に土佐国を出発し、2月16日に帰京を果たします。その期間の出来事を日記にしたのが土佐日記なのです。
先程も述べた通り、当時の日記は漢文で書かれるものでした。この作品は仮名文字で執筆され、57首もの優れた和歌が登場します。京に戻る過程を笑いあり、涙ありのユーモアを交えて描いているのです。
日記と銘打っているものの、内容はフィクションが多く含まれています。実態は日記ではなく、文学作品と呼ぶのがふさわしいですね。
貫之が性別を偽って書いていた
土佐日記で特筆すべき点は「貫之が仮名文字で日記を書いている点」です。和歌に精通していた貫之は仮名文字も堪能でした。しかし貫之は漢文で書くべき日記を仮名文字で執筆。土佐日記の冒頭で貫之はこのように述べました。
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。
意味は「男が書くと聞く日記というものを、女の私もしてみようと思って書くのである」です。作品内に貫之は登場しますが、貫之は貫之の目線で作品を書いていません。貫之と一緒に京に戻る女性の目線で日記を書いています。
女のフリをして日記を書いたというインパクトから、土佐日記を「紀貫之のネカマ日記」と表現する人もいるのです。ただ作中に女性の使わない漢詩が出てくるなど、貫之が書いたと分かる部分は随所に出てきます。
女流文学に大きな影響を与える
土佐日記は日本の文学に大きな影響を与えました。「仮名文字で日記を書く」という発想は画期的な事です。堅苦しい漢文で書いていた日常や旅の過程を、叙情豊かに表現出来るからです。
この作品以降は女性の手に成る文学、女流文学が花開く事になりました。土佐日記から20年後の954年には藤原道綱の母(名前は不明)が、女流日記の先駆けとなる「蜻蛉日記」を執筆し始めます。
1001年には清少納言による「枕草子」1008年には紫式部による「源氏物語」が完成しました。土佐日記から70年後には、日本を代表する女流文学が次々と誕生するのです。
女流文学が花開いた頃、ヨーロッパの中心と呼ばれたイタリアでは字を書ける女性はほとんどいませんでした。仮名文字や女流文学は日本が世界に誇れるものでしょう。そしてその根底にあるのは貫之が生み出した土佐日記なのです。
土佐日記の原本
様々な解釈ができる土佐日記ですが、原本は存在していません。室町時代には8代将軍・足利義政が所属していましたが、その後の消息は不明です。応仁の乱や戦国時代の到来で、散逸したものと思われます。
土佐日記はその内容の質の高さから、成立から20年後には貴族の間では広く読まれるようになります。そして藤原定家などの多くの人物が「原本を見て、書き写し」を行い、それは現在にも伝わっているのです。
実は「現在に至るまで原本を写本したものが伝わっている」という事は特筆すべき点なのです。枕草子や源氏物語は早くから原本は失われ、人から人へと幾度となく書き写されたものが現在へと伝わっています。
つまり私達が読む源氏物語や枕草子は、紫式部や清少納言が執筆した本来の内容と、大きくかけ離れている可能性があるのです。平安時代の原本を忠実に再現した写本が残されているのは、日本文学史でも非常に珍しい事です。
土佐日記の写本を後世に残してくれた事を、私達は感謝しないといけませんね。