帰京 解説
とある国司(貫之)は土佐国を出発する前に、隣人に家の管理を任せていたのです。この人物が何者かは分かっていません。隣人が望んで家の管理を引き受けたものの、隣人は管理を怠り、家は伝聞で聞いた以上に荒んでいたのです。
ただ隣人にそれを咎めると、今後の人間関係にヒビが入りかねません。貫之は思う事があってもそれを口に出さずに、隣人に贈り物をするのです。当時のご近所関係も現在と大きく変わらない事、貫之の義理堅い性格が垣間見えます。
貫之は土佐国で娘を亡くしていた
国司の庭の立派な松の木は、土佐国に派遣されている間に姿形を変えてしまいました。帰りたいと思った京も、いざ帰ってみると何かが違うのです。それ以上の変化は「この家で生まれた女の子がこの世にはいない」という事でした。
解説出来なかった4つの話以外にも、土佐日記には多くの話が収録されています。その中で国司(貫之)と妻が「娘を失った悲しみ」に言及する場面がたくさんあります。
つまり貫之は「娘が死んで悲しむ夫婦」という実体験を、女性という客観的な立場から見ているのです。一方で「一緒に京に戻ってきた人達には新しい家族がいる」との事です。貫之とその妻の悲しみはとても大きいものでしょう。
帰京を果たした貫之の思い
国司(貫之)の妻が悲しむ様子を見て、国司(貫之)は二首の和歌を詠み上げました。それでもその悲しみを言葉に表す事は出来ません。物語は「娘の思いを書き溜めた日記を破ってしまいたい」という一文で終わります。
ただご覧の通り私達は「破ってしまいたい」と思った日記をこうして読んでいます。つまり貫之は土佐日記を破る事なく、後世に伝える道を選んだのでした。
京へ帰りたいと思った一行でしたが、その旅の果ては必ずしも望んだものではなかったのです。
「土佐日記」で紀貫之が伝えたかった事
「冒頭・門出」「阿倍仲麻呂の歌」「海賊の恐れ」「帰京」と土佐日記の有名なエピソードを解説しました。続いては貫之が土佐日記を執筆した「本当の理由」や土佐日記にまつわる謎について迫っていきます。
我が子を失った悲しみ
土佐日記を貫之が執筆した理由は分かっていません。ジョークが随所に盛り込まれる土佐日記ですが、物語のラスト「帰京」では貫之の「娘を失った悲しみ」がとめどなく溢れでてくるのです。
貫之が土佐日記で伝えたかった事は「娘を失った悲しみ」だと筆者は考えます。従来の漢文による日記では感情の機微は表現出来ません。だからこそ貫之は仮名文字で日記を書く事を選んだのです。
そして貫之は自分を主人公にせず「国司と行動を共にする女性」を主人公にしました。それは「自分を主人公にする悲しみ」に耐えられなかったからでしょう。そう考えれば作品の意義と、冒頭の女性のフリの辻褄が合ってきます。
濁点をつけると浮かび上がる文章
土佐日記の有名な一文「男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとてするなり」には、様々な憶測があります。この文章のとある部分に濁点を加えると、全く別の文章が浮かび上がってくるのです。
男もずなる日記(にき)といふものを、女もじてみむとてするなり「す」と「し」に濁点をつけて現代語訳すると「男文字なる日記を、女文字でしてみる」となります。
土佐日記の原文には濁点がつけられているものの、それは原文を分かりやすくする為です。濁点の表記は貫之の時代にはありませんでした。発音としての濁音はあったものの、それは文脈で判断していたのです。
貫之は優れた歌人であり「掛詞」を和歌に多く取り入れていました。そう考えれば、土佐日記の冒頭に貫之なりの遊び心があってもおかしくありません。これはあくまでも「1つの説」ではあるものの、説得力のある話だと思います。
本当の名前は「土左日記」
教科書やネット上でも「土佐日記」という名称が一般的です。しかし古くは「土左日記」と表記されていました。些細な事と思うかもしれませんが、実は大きな意味があります。
土佐国は「古事記」等では土佐国と表記されていました。その後は「土佐」と「土左」が混在していましたが、713年の好字令で「土佐」が正式な名称となるのです。平安中期には土佐が一般的な表記が浸透しました。
貫之が生きたのは平安中期で、当時は「土佐」が一般的な表記でした。貫之はあえてメジャーではない「土左」という表記を選択。背景には「この作品はフィクションである」というメッセージが込められているのかもしれません。
土佐日記の中にある不思議なやりとり
土佐日記をじっくりと読めば、その旅の過程の多くがフィクションである事が見えてきます。阿倍仲麻呂のエピソードでも、月が都合よく現れていましたね。またこのようなエピソードも掲載されています。
「ここやいどこ」と問ひければ、「土佐の泊」と言ひけり。昔、土左といひけるところに住みける女、この船にまじれりけり。
現代語訳するなら、「ここはどこです」と(私が)尋ねると「土佐の泊」と答えがあった。昔、土左とかいうところに住んでいた女がこの船に乗っていた。となります。
貫之一行は土佐国から京に向かう筈です。にもかかわらず、女(のフリをした貫之)は「土左というところに住んでいた女」と初対面の会話を交わしています。貫之は土佐国から来た筈なのに、実に不思議な話です。
どうしてこのようなやりとりが生まれたのでしょうか。
冒頭・門出を読み直す
そして改めて「冒頭・門出」を読み直して見ましょう。貫之一行がどこかの国から出発する事は書いてあっても、その場所が土左国であるかは一切書かれていません。
つまり土佐日記は現実を主題にしつつも、あえて「土左国」という古い表記を使用する事で、フィクションという要素を示唆しているのですね。そうすれば、いく先々で起こる不思議な出来事も合点がいきます。
つまり土佐日記は日記文学ではなく、娘を失った悲しみをテーマにした物語と捉える事が出来るのです。そう考えると「土佐日記」が更に奥深く、謎の多い作品に見えてきますね。