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土佐日記とは何かわかりやすく解説!作者や品詞分解も簡単に紹介

「土佐日記」は平安時代中期に、歌人・紀貫之が執筆した日記文学です。内容は土佐国の役人(国司)だった貫之が、京に戻るまでの旅路を綴ったものです。男性である貫之は、土佐日記を女性目線で執筆しており、情景や心情が仮名文字で生き生きと表現されています。

臨書された土佐日記
出典:Wikipedia

古典の授業で必ず習う土佐日記ですが、歴史的意義や内容については詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。この記事では土佐日記とはどのような作品なのか、あらすじや作者、後世に与えた影響などについて紹介していきます。

土佐日記は気軽に読める作品ですが、貫之が土佐日記を書こうと考えた理由や、平安時代特有の歴史的背景を知っておく方が、理解しやすいと思います。この記事を読んで、「土佐日記について詳しく知りたい」と思ってもらえれば幸いです。

土佐日記とは

紀貫之(百人一首より)
出典:Wikipedia

土佐日記とは平安時代の歌人・紀貫之が執筆した日記文学です。貫之が土佐国で国司だった貫之が、土佐国から京へ戻るまでの道のりを日記にしたものになります。作品が生まれた時代背景や、作者の貫之についてまずは解説していきましょう。

平安時代に生まれた日記文学作品

平安京の復元模型
出典:Wikipedia

貫之は京に戻ってから土佐日記を書き上げました。この作品は判明している時点で日本初の日記文学です。更に「仮名文字」で書かれている点が特徴になります。

仮名文字とはひらがなやカタカナの事です。もともとの由来は伊をイと置き換えるように、漢字を変化させたものになります。仮名文字の発展により、日本人は日本人が持つ感性を最大限に表現できるようになりました。

奈良時代は風の文化が色濃く反映されていましたが、平安時代には日本古来の文化を大切にする国風文化が花開きます。この頃から文字として漢文だけでなく仮名文字が使われ始めました。仮名文字は主に和歌などで用いられています。

平安時代の日記は男が漢文を使って書いていた

貫之が書いた古今和歌集の仮名序は、仮名文字で書かれている
出典:Wikipedia

平安時代は公的な文書は「男性が漢文で書くもの」でした。女性が使う文字は仮名文字に限られ「男性は漢文・女性は仮名文字を使う」とされていたのです。ただ和歌は仮名文字を使用している為、男性が仮名文字を使う機会は多くありました。

また平安時代の日記とは「儀式や政情を伝え残すもの」という意味合いがあり、朝廷の公的な記録という意味合いがあったのです。現在の日記とは意味合いが異なり、漢文で書かれた非常に堅苦しいものでした。

「日記は男性が漢文で書くもの」「日記は朝廷の公的な記録」という2点を踏まえておくと、土佐日記が画期的な作品である事が分かってくるのです。

作者である紀貫之とは?

明治時代に描かれた紀貫之の肖像画
出典:Wikipedia

土佐日記を執筆したのは紀貫之です。貫之が生まれたのは866年頃。貫之は「紀氏」という貴族として生まれるものの、当時は藤原家が台頭していました。結果的に貫之は朝廷の中で思うような出世が出来なかったのです。

没落していた紀氏ですが、彼らは和歌などの文学的な才能に秀でていました。貫之は周囲の環境と天性の才能を活かし、和歌を詠む歌人として名を馳せていくのです。

貫之は醍醐天皇の命令で、日本初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の編纂に着手。完成したのは905年の事でした。貫之は古今和歌集の序文・仮名序で和歌の本質やあり方について解説しています。

貫之は優れた歌人であると共に、和歌についての学問である歌学を生み出しました。貫之は一連の功績から、文学史上最大の敬意を払われてきたのです。貫之が後世に与えた影響は計り知れないものがあるでしょう。

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帰路での出来事を綴った日記

貫之が土佐国から京へ戻る道のり
出典:土佐日記

土佐日記が完成したのは934年頃です。貫之は土佐国の役人(国司)でしたが、任期を終えて京に戻る事になりました。貫之は12月21日に土佐国を出発し、2月16日に帰京を果たします。その期間の出来事を日記にしたのが土佐日記なのです。

先程も述べた通り、当時の日記は漢文で書かれるものでした。この作品は仮名文字で執筆され、57首もの優れた和歌が登場します。京に戻る過程を笑いあり、涙ありのユーモアを交えて描いているのです。

日記と銘打っているものの、内容はフィクションが多く含まれています。実態は日記ではなく、文学作品と呼ぶのがふさわしいですね。

貫之が性別を偽って書いていた

万葉集・額田王の歌
出典:Wikipedia

土佐日記で特筆すべき点は「貫之が仮名文字で日記を書いている点」です。和歌に精通していた貫之は仮名文字も堪能でした。しかし貫之は漢文で書くべき日記を仮名文字で執筆。土佐日記の冒頭で貫之はこのように述べました。

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。

意味は「男が書くと聞く日記というものを、女の私もしてみようと思って書くのである」です。作品内に貫之は登場しますが、貫之は貫之の目線で作品を書いていません。貫之と一緒に京に戻る女性の目線で日記を書いています。

女のフリをして日記を書いたというインパクトから、土佐日記を「紀貫之のネカマ日記」と表現する人もいるのです。ただ作中に女性の使わない漢詩が出てくるなど、貫之が書いたと分かる部分は随所に出てきます。

女流文学に大きな影響を与える

土佐光起筆『源氏物語画帖』
出典:Wikipedia

土佐日記は日本の文学に大きな影響を与えました。「仮名文字で日記を書く」という発想は画期的な事です。堅苦しい漢文で書いていた日常や旅の過程を、叙情豊かに表現出来るからです。

この作品以降は女性の手に成る文学、女流文学が花開く事になりました。土佐日記から20年後の954年には藤原道綱の母(名前は不明)が、女流日記の先駆けとなる「蜻蛉日記」を執筆し始めます。

1001年には清少納言による「枕草子」1008年には紫式部による「源氏物語」が完成しました。土佐日記から70年後には、日本を代表する女流文学が次々と誕生するのです。

女流文学が花開いた頃、ヨーロッパの中心と呼ばれたイタリアでは字を書ける女性はほとんどいませんでした。仮名文字や女流文学は日本が世界に誇れるものでしょう。そしてその根底にあるのは貫之が生み出した土佐日記なのです。

土佐日記の原本

足利義政
出典:Wikipedia

様々な解釈ができる土佐日記ですが、原本は存在していません。室町時代には8代将軍・足利義政が所属していましたが、その後の消息は不明です。応仁の乱や戦国時代の到来で、散逸したものと思われます。

土佐日記はその内容の質の高さから、成立から20年後には貴族の間では広く読まれるようになります。そして藤原定家などの多くの人物が「原本を見て、書き写し」を行い、それは現在にも伝わっているのです。

実は「現在に至るまで原本を写本したものが伝わっている」という事は特筆すべき点なのです。枕草子や源氏物語は早くから原本は失われ、人から人へと幾度となく書き写されたものが現在へと伝わっています。

つまり私達が読む源氏物語や枕草子は、紫式部や清少納言が執筆した本来の内容と、大きくかけ離れている可能性があるのです。平安時代の原本を忠実に再現した写本が残されているのは、日本文学史でも非常に珍しい事です。

土佐日記の写本を後世に残してくれた事を、私達は感謝しないといけませんね。

「土佐日記」の主なあらすじ

続いて土佐日記に書かれている有名な4つの話を解説します。土佐日記は古典の授業は当然のこと、高校や大学の入試でも頻出する作品です。原文と現代語訳の他、内容を補足して解説していきます。

冒頭・門出

土佐国の場所
出典:Wikipedia

冒頭・門出:原文

男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとて、するなり。
それの年の十二月(しはす)の二十日(はつか)あまり一日(ひとひ)の日の戌の時に、門出す。
その由(よし)、いささかにものに書きつく。

ある人、県(あがた)の四年五年(よとせいつとせ)果てて、例のことどもみなし終へて、解由(げゆ)など取りて、住む館(たち)より出(い)でて、船に乗るべき所へ渡る。

かれこれ、知る知らぬ、送りす。
年ごろよく比べつる人々なむ、別れ難く思ひて、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに、夜更けぬ。

二十二日(はつかあまりふつか)に、和泉(いずみ)の国までと、平らかに願(ぐわん)立つ。
藤原(ふぢはら)のときざね、船路なれど、馬(むま)のはなむけす。

上中下(かみなかしも)、酔ひ飽きて、いとあやしく、潮海(しほうみ)のほとりにて、あざれあへり。

二十三日(はつかあまりみか)。
八木のやすのりといふ人あり。
この人、国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり。
これぞ、たたはしきやうにて、馬のはなむけしたる。

守柄(かみがら)にやあらむ、国人(くにひと)の心の常として、「今は。」とて見えざなるを、心ある者は、恥ぢずになむ来ける。
これは、物によりて褒むるにしもあらず。

二十四日(はつかあまりよか)。
講師(かうじ)、馬のはなむけしに出でませり。
ありとある上下(かみしも)、童(わらは)まで酔ひ痴(し)れて、一文字(いちもんじ)をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。

冒頭・門出:現代語訳

男が書くと聞く日記というものを、女(の私)もしてみようと思って書くのである。ある年の12月21日、午後8時ごろに出発する。その(旅の)次第をほんの少し物に書きつける。

ある人が、国司としての4、5年の勤めが終わり、決まりごととなっていること(国司交代の引継ぎ)をすべて終えて、解由状などを受け取り、住んでいる館から出発して、(京に帰る)船に乗るはずになっている所へと移る。あの人この人、知っている人も知らない人も、見送りをする。

ここ数年、親しく付き合ってきた人たちは、別れがたく思って、一日中絶えずあれこれ(世話を)しながら、騒いでいるうちに、夜がふけてしまった。

二十二日に、和泉の国まで、無事であるようにと神仏に祈願する。藤原のときざねが、船旅であるのに、馬のはなむけ(=送別の宴)をする。

身分の高い者も中・下の者もすっかり酔っ払って、たいそう不思議なことに、潮海のそばで、ふざけ合っている。

二十三日。
八木のやすのりという人がいる。
この人は、国司の役所で必ずしも仕事などを言いつけて使う者でもないようだ。この人が、堂々として立派な様子で、餞別を贈ってくれた。

国司の人柄であろうか、国の人の人情の常として、「今は」と思って見送りに来ないようだが、真心のある人は、気にせずにやって来るのだよ。よい贈り物をもらったからといって褒めるわけでもない。

二十四日。
国分寺の僧官が、送別の宴をしにおいでになった。
そこにいあわせた人々は身分の上下を問わず、子どもまでが正体なく酔っ払って、一の文字さえ知らない者が、その足は十の文字を踏んで遊んでいる。

冒頭・門出:解説

土佐国衙跡碑
出典:Wikipedia

土佐日記の記念すべき最初のくだりです。物語はとある女性(のフリをした貫之)が、日記を書き始めるところから始まります。

とある人物が国司の任務を終えて、住んでいる館を出発し、港まで向かいます。「とある人」とは紀貫之本人です。史実の貫之も延長8年(930年)に土佐国に国司として派遣されています。京に戻る時点で貫之の年齢は67歳と、かなりの高齢でした。

馬のはなむけを受ける貫之

土佐国分寺
出典:Wikipedia

12月22日から24日にかけて大津の地で藤原のときざね、八木やすのり、国分寺の僧侶などが貫之の元を訪れます。固有名詞である「ときざね」や「やすのり」を平仮名で表記しているのは、あえて「漢文の作法」に従わなかった為でしょう。

また当時は「送別会」を馬のはなむけと表現しました。貫之は船で京に帰るのに「馬のはなむけ」というのは、不思議だと洒落の効いた言葉を残します。この一節も、今までの漢文には見慣れない表現でした。

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