土佐日記とは何かわかりやすく解説!作者や品詞分解も簡単に紹介

「土佐日記」の主なあらすじ

続いて土佐日記に書かれている有名な4つの話を解説します。土佐日記は古典の授業は当然のこと、高校や大学の入試でも頻出する作品です。原文と現代語訳の他、内容を補足して解説していきます。

冒頭・門出

土佐国の場所
出典:Wikipedia

冒頭・門出:原文

男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとて、するなり。
それの年の十二月(しはす)の二十日(はつか)あまり一日(ひとひ)の日の戌の時に、門出す。
その由(よし)、いささかにものに書きつく。

ある人、県(あがた)の四年五年(よとせいつとせ)果てて、例のことどもみなし終へて、解由(げゆ)など取りて、住む館(たち)より出(い)でて、船に乗るべき所へ渡る。

かれこれ、知る知らぬ、送りす。
年ごろよく比べつる人々なむ、別れ難く思ひて、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに、夜更けぬ。

二十二日(はつかあまりふつか)に、和泉(いずみ)の国までと、平らかに願(ぐわん)立つ。
藤原(ふぢはら)のときざね、船路なれど、馬(むま)のはなむけす。

上中下(かみなかしも)、酔ひ飽きて、いとあやしく、潮海(しほうみ)のほとりにて、あざれあへり。

二十三日(はつかあまりみか)。
八木のやすのりといふ人あり。
この人、国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり。
これぞ、たたはしきやうにて、馬のはなむけしたる。

守柄(かみがら)にやあらむ、国人(くにひと)の心の常として、「今は。」とて見えざなるを、心ある者は、恥ぢずになむ来ける。
これは、物によりて褒むるにしもあらず。

二十四日(はつかあまりよか)。
講師(かうじ)、馬のはなむけしに出でませり。
ありとある上下(かみしも)、童(わらは)まで酔ひ痴(し)れて、一文字(いちもんじ)をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。

冒頭・門出:現代語訳

男が書くと聞く日記というものを、女(の私)もしてみようと思って書くのである。ある年の12月21日、午後8時ごろに出発する。その(旅の)次第をほんの少し物に書きつける。

ある人が、国司としての4、5年の勤めが終わり、決まりごととなっていること(国司交代の引継ぎ)をすべて終えて、解由状などを受け取り、住んでいる館から出発して、(京に帰る)船に乗るはずになっている所へと移る。あの人この人、知っている人も知らない人も、見送りをする。

ここ数年、親しく付き合ってきた人たちは、別れがたく思って、一日中絶えずあれこれ(世話を)しながら、騒いでいるうちに、夜がふけてしまった。

二十二日に、和泉の国まで、無事であるようにと神仏に祈願する。藤原のときざねが、船旅であるのに、馬のはなむけ(=送別の宴)をする。

身分の高い者も中・下の者もすっかり酔っ払って、たいそう不思議なことに、潮海のそばで、ふざけ合っている。

二十三日。
八木のやすのりという人がいる。
この人は、国司の役所で必ずしも仕事などを言いつけて使う者でもないようだ。この人が、堂々として立派な様子で、餞別を贈ってくれた。

国司の人柄であろうか、国の人の人情の常として、「今は」と思って見送りに来ないようだが、真心のある人は、気にせずにやって来るのだよ。よい贈り物をもらったからといって褒めるわけでもない。

二十四日。
国分寺の僧官が、送別の宴をしにおいでになった。
そこにいあわせた人々は身分の上下を問わず、子どもまでが正体なく酔っ払って、一の文字さえ知らない者が、その足は十の文字を踏んで遊んでいる。

冒頭・門出:解説

土佐国衙跡碑
出典:Wikipedia

土佐日記の記念すべき最初のくだりです。物語はとある女性(のフリをした貫之)が、日記を書き始めるところから始まります。

とある人物が国司の任務を終えて、住んでいる館を出発し、港まで向かいます。「とある人」とは紀貫之本人です。史実の貫之も延長8年(930年)に土佐国に国司として派遣されています。京に戻る時点で貫之の年齢は67歳と、かなりの高齢でした。

馬のはなむけを受ける貫之

土佐国分寺
出典:Wikipedia

12月22日から24日にかけて大津の地で藤原のときざね、八木やすのり、国分寺の僧侶などが貫之の元を訪れます。固有名詞である「ときざね」や「やすのり」を平仮名で表記しているのは、あえて「漢文の作法」に従わなかった為でしょう。

また当時は「送別会」を馬のはなむけと表現しました。貫之は船で京に帰るのに「馬のはなむけ」というのは、不思議だと洒落の効いた言葉を残します。この一節も、今までの漢文には見慣れない表現でした。

土佐日記から読み解く紀貫之

ちなみに国司は「地方で税を徴収し、国に一定額を納める仕事」です。一定額を納めれば残りは自分の取り分になるので、熾烈な取り立てをする国司もいました。その為、国司は地方の人達から恐れられていたのです。

ただ貫之は「冒頭・門出」において皆から熱烈な見送りを受けています。貫之は地方の住民からは親しまれており、熾烈な取り立てはしなかったのではないでしょうか(見送りがフィクションでなければ)。

阿倍仲麻呂の歌

月を見て貫之は何かを想った
出典:Wikipedia

貫之一行は浦戸・大湊・宇多の松原・奈半の泊・羽根・室津と旅路を続けます。ある時、船に乗る事になりますが、天気が悪くなかなか出発出来ません。女性(貫之)は望郷の念から「とある人物」と自分を重ねたのでした。

阿倍仲麻呂の歌:原文

十九日。日あしければ船いださず。
二十日。昨日のやうなれば船いださず、みな人々憂へ嘆く。苦しく 心もとなければ、ただ日の経ぬる数を、今日幾日、二十日、三十日と数ふれば、指もそこなはれぬべし。いとわびし。夜は寝も寢ず。

二十日の夜の月出でにけり。山のはもなくて海の中よりぞ出でくる。

かうやうなるを見てや、むかし阿部仲麻呂といひける人は、もろこしに渡りて帰り来ける時に、船に乗るべき所にて、かの国人、馬のはなむけ、わかれ惜みて、かしこの漢詩作りなどしける。

飽かずやありけむ、二十日の夜の月出づるまでぞありける。その月は海よりぞ出でける。これを見てぞ仲麻呂の主 「我が国にはかかる歌をなむ神代より神もよんたび、今は上中下の人もかうやうに別れ惜しみ、よろこびもあり、かなしみもある時には詠む」とて、詠めりける歌、

「青海原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」とぞ詠めりける。

かの国の人聞き知るまじく思ほえたれども、ことの心を男文字に様を書き出して、ここのことば伝へたる人に言ひ知らせければ、心をや聞き得たりけむ、いと思ひの外になむ愛でける。

もろこしとこの国とは言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ人の心も同じことにやあらむ。

さて、今、そのかみを思ひやりて、ある人の詠める歌、 「都にて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ」。

阿倍仲麻呂の歌:現代語訳

19日。天気が悪いので船は出さない。
20日。昨日のような天気だったので、船は出さない。人々はみな嘆き悲しんでいる。

苦しく、不安で落ち着かないので、ただ日が過ぎていくのを「今日で何日目だ。」、「20日目」、「30日目」と数えているので、指が痛んでしまいそうだ。なんともやりきれない。夜は寝るに寝ることができない。

20日の夜に月がでた。山の端もなくて、海から月が出てくる(ように見える)。このような月を見て(次のことを思い出す。)

昔、阿倍仲麻呂という人は、に留学で渡って、日本に帰るとなったときに、船の乗り場であちらの国の人が、仲麻呂の送別会をして別れを惜しんで、漢詩を作ったりした。

それに飽き足らなかったのだろうか、彼らは20日の夜の月が出るまでそこに留まった。その日の月は、海から出てきた。

これを見た仲麻呂は、「私の国では、神代から神様もお詠みになり、今では身分に関係なく、このように別れを惜しみ、喜び、悲しんだりしたときにこのような歌を詠むのです。」 と言って次の歌を詠んだ。

「青海原をはるかに見渡したときに見える月、この月は私のふるさとの春日にある三笠の山の上に出る月と同じなんだよなぁ。」

あちらの国の人は、聞いてもわかるはずはないと思われたのだけど、歌の意味を漢字に書き直して、日本語を習ってに教えている人に伝えたところ、歌の意味を理解できたのだろうか、思っていた以上に(歌を)賞賛した。

とこの国(日本)とでは言葉は違っているものであるけれど、月の光は同じに違いないなので、(それを見て感じる)人の心も同じことではないだろうか。

(ということを思い出して、)その時代のことを思いながらある人が詠んだ歌がこれである。

都では月というものは山の端に見えるものだけど、ここでは海原から出て、また海原に沈んでいくものだなぁ。

阿倍仲麻呂の歌:解説

阿倍仲麻呂
出典:Wikipedia

一行は天候が悪く、出航出来ない事への焦りを感じています。当時の日本は「月の満ち欠けで1ヶ月を計算する太陰暦」を採用していました。女性は「20日を表す月」が海から出てくる様子をみて、「阿倍仲麻呂」という人物を思い出します。

阿倍仲麻呂は奈良時代に唐へ留学を果たした人物です。唐で高官になった仲麻呂は、日本に唐の技術を伝える為に帰国を決意。貫之は「仲麻呂が日本に帰ろうと思った時に唐人に漢詩を伝えた事。それが賞賛された事」を思い出したのです。

貫之が仲麻呂のエピソードをこの場面で引用したのは「京へ帰りたいという心情」と「20日目の月が海から顔を出す状況」が阿倍仲麻呂の境遇と似ていたからでした。

そして仲麻呂が詠んだのは漢詩ですが、唐人もその内容に感動しています。つまり和歌でも漢詩でも「別れを惜しむ時には詩歌を詠む点」は同じなのですね。

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