阿倍仲麻呂のその後
ちなみに仲麻呂は屋久島を目指して帰国するものの、暴風雨で漂流して安南へ漂着。その後も仲麻呂は帰国を目指すものの、安史の乱などの政局の不安から、最期まで帰国を果たせませんでした。
ちなみに仲麻呂の漢詩のエピソードは「貫之の創作説」があります。理由として「そもそも仲麻呂の漢詩を誰が日本に伝えたのか」「漢詩の中に日本に帰国出来なかった望郷の念が既に表現されていて不審」という事が挙げられます。
和歌を詠む貫之
ちなみに女性は「ある人物」が詠んだ和歌を紹介しています。この「ある人」とは紀貫之自身の事ですね。あくまでも貫之は第三者的な目線から、自分の和歌を詠み上げています。
京では月は山のある方向へ沈みますが、この地では水平線の向こうに沈みます。月をテーマに京に戻りたいという貫之の思いが伝わってきますね。
余談ですが、仲麻呂が詠んだ歌は漢詩ですが、平安時代の女性は漢詩を知りません。その事から土佐日記の筆者が男性(貫之)が執筆していた事はバレバレであったと考えられます。
海賊の恐れ
女性(のフリをした貫之)と一行は1月29日に阿波の土佐泊浦に到着。ここから船で鳴門海峡を横断して本州へ渡るのです。しかしこの海には「海賊」という恐ろしい存在がいました。
海賊の恐れ 原文
二十三日。
日照りて曇りぬ。「このわたり、海賊の恐れあり。」と言へば、神仏を祈る。二十四日。
昨日の同じ所なり。二十五日。
楫取らの「北風悪し。」と言へば、船出ださず。「海賊追ひ来。」と言ふこと、絶えず聞こゆ。二十六日。
まことにやあらむ。「海賊追ふ。」と言へば、夜中ばかり船を出だして漕ぎ来る路に手向けする所あり。楫取して幣(ぬさ)奉らするに、幣の東へ散れば楫取の申して奉る言は、「この幣の散る方に御船すみやかに漕がしめ給へ。」と申して奉る。
[わたつみの道触りの神に手向けする 幣の追ひ風止まず吹かなむ]とぞ詠める。
これを聞きて、ある女の童の詠める、この間に、風のよければ、楫取いたく誇りて、船に帆上げなど喜ぶ。その音を聞きて、童も嫗も、いつしかとし思へばにやあらむ、いたく喜ぶ。この中に、淡路の専女といふ人の詠める歌、
[追風の吹きぬる時は行く船の 帆手打ちてこそうれししかりけれ]とぞ。天気のことにつけて祈る。
海賊の恐れ:現代語訳
二十三日。
日が照ってそして曇った。
「この辺りは海賊の恐れがある。」と言うので、神仏に祈る。二十四日。
昨日と同じ場所である。二十五日。
船頭たちが、「北風が悪い。」と言うので、船を出さない。
「海賊が追って来る。」ということ(=うわさ)が、絶え間なく聞こえる。二十六日。
本当なのであろうか、「海賊が追って来る。」と言うので、深夜頃から船を出して漕いで来るその途中に、神に供え物をする所がある。船頭に言いつけて幣を奉納させたところ、幣が東へ散ったので、船頭が神に申しあげて差し上げる際の言葉は、「この幣の散る方角に、御船をすぐに漕がせてください。」と申して差し上げる。
[海路の行く手を守ってくださる守護神に、手向ける幣を東へなびかす追い風よ、止まずに吹き続けてほしい。]と詠んだ。
これを聞いて、ある女の子が詠んだ、この間に、風がよくなったので、船頭はとても誇らしげで、船に帆を上げなどして喜ぶ。
[追い風が吹いてきた時は、進んでいく船の帆を張るための網を手をたたいて喜ぶことだなあ。]
その音を聞いて、子どももおばあさんも、早くと思っていたからであろうか、とても喜んだ。
この人々の中で、淡路島出身の老女という人が詠んだ歌、
と詠んだ。天気のことについて神仏に祈る。
海賊の恐れ:解説
平安時代といえば雅な京の世界が頭に浮かぶかもしれません。現実の平安時代は海賊や盗賊が横行し、治安が非常に悪かったのです。瀬戸内〜鳴門海峡付近は交通の要所であり、海賊が多発していました。
土佐日記の他「今昔物語集」にも豊後国から京に向かう途中の僧侶が海賊に襲われた話が収録されています。船頭達は武器を持たずに丸腰で鳴門海峡を渡る為、海賊が寝静まっている「深夜頃」から船を出発したのです。
一行は神様にお供え物をしたり、和歌を詠み上げて鳴門海峡を横断出来るように苦労しています。丸腰の一行はもちろん、船頭達も海賊と出くわせばひとたまりもありません。
和歌を詠んで風が止む
特筆すべきは「ある女の子が和歌を詠むと、風が良くなったという事」です。この時代「言葉には霊的な力が宿る」とされ、優れた和歌には強い力が宿り、それが真実になると信じられていたのです。
実際、貫之の和歌のパワーは凄まじいものがありました。貫之の和歌で馬が再び歩けるようになったというエピソードが知られています。結果的に一行は海賊に出くわす事なく、船の旅を終えました。
「海賊の恐れ」のエピソードは小説に例えるなら、一番盛り上がる部分に該当すると言えます。
帰京
女性(のフリをした貫之)と一行は2月26日に帰京を果たします。土佐国を出発したのは12月21日の事でした。現在なら1日あればたどり着く距離ですが、大変な苦労があった事が分かります。
とある国司(貫之)は懐かしき我が家を見て何を思うのでしょうか。
帰京:原文
京に入り立ちてうれし。家に至りて、門に入るに、月明かければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもまして、言ふかひなくぞこぼれ破れたる。家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり。
中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり。さるは、便りごとに物も絶えず得させたり。今宵、 「かかること。」
と、声高にものも言はせず。いとはつらく見ゆれど、こころざしはせむとす。
さて、池めいてくぼまり、水つける所あり。ほとりに松もありき。五年六年のうちに、千年や過ぎにけむ、かたへはなくなりにけり。
今生ひたるぞ交じれる。おほかたのみな荒れにたれば、 「あはれ。」とぞ人々言ふ。
思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、この家にて生まれし女子の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。船人もみな、子たかりてののしる。
かかるうちに、なほ悲しきに堪へずして、ひそかに心知れる人と言へりける歌、
生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ
とぞ言へる。なほ飽かずやあらむ、また、かくなむ。
見し人の松の千年に見ましかば遠く悲しき別れせましや
忘れがたく、口惜しきこと多かれど、え尽くさず。とまれかうまれ、疾く破りてむ。
帰京:現代語訳
京に立ち入って嬉しい。家について、門に入ると、月の光が明るいので、大変よく(家の)様子が見える。伝え聞いていた以上に、どうしようもないほど壊れ傷んでいる。家の管理を任せていた人の心も、すさんでいたことよ。
(隣の家とを隔てる)垣根はあるけれど、(隣の家と私の家とは)一軒の家のようなものなので、(お隣さんが)望んで管理を引き受けたのだ。そうではあるが、機会のあるごとに(お礼の)品を(お隣には)絶えることなく与えてある。今晩 「こんな(ひどい)こと。」
と(従者に)大声で文句を言うようなこともさせない。(留守を預かってくれた人は)とても薄情だと思うけれど、(お礼の)贈り物はしようと思う。
さて、(庭には)池のようにくぼんで、水がたまっている場所がある。その側には松もあった。(家を空けていた)5、6年のうちに、1000年も過ぎてしまったのだろうか、(松の)一部分がなくなってしまっていた。(松には)新しく生えたものがまじっている。
(松だけでなく)大部分はすっかり荒れてしまっているので、
「あぁ(なんということだ)。」と人々は言う。思い出さないことはなく、(昔を)思って恋しいことの中でも、この家で生まれた女の子が(土佐で死んでしまったために、京都に)一緒に帰っていないのが、どんなに悲しいことか。(一緒に帰ってきた同じ)船の人たちにも皆、子どもが寄り集まって騒いでいる。
こうしているうちに、いっそうの悲しさに我慢できずに、こっそりと(互い)の心を理解している人(妻のこと)と詠んだ歌
(この家で)生まれた子でさえも帰ってこないというのに、(留守の間に)我が家に生えた小さい松が(育って)あるのを見るのが悲しいことよ。
と詠んだが、それでも詠み足らないのだろうか、また次のように(詠んだ)。
以前会ったことのある人(亡くなった娘)が、松が1000年生きるように(生き長らえてその様子を)見る(ことができるの)ならば、遠く(土佐で)悲しい別れなどしただろうか、いや、せずにすんだろうに。
忘れることもできず、残念なことも多いが、書き尽くすことはできない。いずれにしても、(こんな日記は)早く破ってしまおう。