新撰組とは?成り立ちや活動内容、主要メンバーを解説【組織図付き】

新撰組の活動経緯

新撰組の歴史をダイジェスト

新撰組が活躍した短くも太い5年間の足跡を、簡単に辿っていきます。

1863年2月~3月:将軍警護の浪士隊として発足

14代将軍徳川家茂
出典:Wikipedia

1862年に江戸幕府が、将軍家茂の警護のために浪士組を募集。1863年に集まったおよそ200名を「浪士組」として京へと向かっています。しかし京につくと将軍警護のためと聞いていたのに、浪士組を企画した清河八郎が「実は尊王攘夷だ」と演説し、天皇配下の部隊にするつもりだということが発覚。

芹沢鴨、最初の新撰組の局長だったが後に暗殺される
出典:草の実堂

そこで二手に別れ、江戸に戻らず京に残った近藤勇を中心とする試衛館派と芹沢鴨を中心とする水戸派で、公武合体に基づく攘夷断行を実現する目的として新撰組の前身「壬生浪士隊」が発足したのです。

京都守護職・松平容保
出典:Wikipedia

壬生浪士隊は壬生の八木邸や前川邸などを駐屯地とし、京都守護職の松平容保に不逞浪士の取り締まりと市中の警備を任されました。京到着の2か月後に、大阪の商人から100両提供させて隊服や隊旗揃えています。

1863年6月:大阪相撲力士と乱闘を起こす

力士の浮世絵
出典:Wikipedia

発足から3か月後、芹沢・近藤など10名が大阪の不逞浪士取り締まりのために大阪に下っています。その際にすれ違った力士が道を譲らなかったため、芹沢たちが暴行。それに怒った力士の仲間も駆けつけ乱闘となり、壬生浪士側にも負傷者が出ました。

結局この騒ぎは小野川部屋の年寄りが詫びを入れ、50両を贈ったために事無きを得ましたが、この時の対応で大阪町奉行所与力の彦五郎が近藤を怒らせ、後に新撰組に暗殺されたといわれています。

1863年8月~9月:八月十八日の政変で活躍する

放火とは驚かされるが一説として関与が否定されている説もあるらしい

八月十八日の政変の少し前に、芹沢鴨ら30名の隊士が金策を断った生糸問屋を放火し、刀を抜いて火消しを寄せ付けず一晩かけて焼き尽くす事件が起きています。これに立腹した松平容保は近藤たちを呼び出し処置を求めたといわれています。

急進派公家の一人壬生基修、「七卿落ち」と呼ばれ7人の公家が追放された
出典:Wikipedia

そして八月十八日政変が起こり、この時に壬生浪士隊は御所の南門の警備にあたり活躍しました。そして活躍が評価され、新たな隊名「新撰組」を拝命しています。そして9月に近藤や土方が、屯所の八木邸で芹沢鴨・平山五郎を暗殺。平間重助は逃走、野口健司は12月に切腹して水戸派はいなくなり、試衛館派が組を掌握し近藤が局長となったのでした。

1864年6月:池田屋事件で活躍する

池田屋跡
出典:Wikipedia

今まで問題行動も多く庶民に評判が悪かった新撰組が、一躍英雄にしたのが1864年に起きた「池田屋事件」です。長州藩が御所周辺に火を放ち、公武合体派の人物を暗殺し天皇を拉致するという計画が発覚し、新撰組が未然に防いでいます。

近藤たち乱闘の末、尊王攘夷の志士を10名殺害、23名が束縛。この事件で新撰組の名は上がり、新撰組が屯所に戻るときは野次馬であふれたといいます。荒くれ物の集まりという評判だった新撰組も良い方向に名前を知られることとなりました。

1864年7月:禁門の変で出動する

禁門の変でついたという弾跡
出典:Wikipedia

1864年7月に長州藩勢力が、京都守護職の松平容保らを排除するために挙兵し、京で市街戦が行われました。この事件は京の市街地が3万戸焼失する一大事件となり、新撰組は長州藩士の鎮圧に出動しています。

新撰組は6月の池田屋事件と、7月の禁門の変での功績で朝廷と幕府・会津藩から200両ほどの恩賞を貰っています。そして隊員を募集し、藤堂平助が同門の伊東甲子太郎を入隊させています。伊東は入隊当初から参謀という破格の待遇で期待されていた人物でした。その他の加盟者もおり200名程の規模に膨れ上がったといいます。

1865年2月~3月:山南啓助切腹、駐屯地が西本願寺に移る

切腹の様子(明治時代の芝居の写真)
出典:Wikipedia

1865年2月に副長の山南敬助が脱走し、切腹しました。理由は伊東を参謀と招いたことにより、山南の居場所が無くなっていったからとも、屯所移転問題からともいわれています。

当時本願寺は、勤皇派が強く、長州毛利家とも深く結びついていました。近藤は敢えてそこに屯所とすることで抑えようという意図があったといいますが、勤皇の志が強い山南はこれに反対。しかし近藤・土方は全く取り合わず新撰組から離れようと決意させたといいます。

西本願寺に屯所を移している
出典:Wikipedia

結局色々な理由が複合したのかもしれませんが、山南は切腹しその半月後に新撰組は屯所を西本願寺に移しています。

1866年9月:三条制札事件が起こる

三条大橋の制札が引き抜かれ鴨川に捨てられていたらしい
出典:Wikipedia

禁門の変以降、三条大橋西詰の高札場に長州藩を政敵とする立札が立っていました。しかし酷い火災に見舞われた京の住人には長州藩に同情的な人も多かったといいます。1865年に幕府が長州征伐に失敗、そのため幕府の権威が揺らぎ、立札が引き抜かれる事が多発します。

その中で特に鴨川の三条大橋に立てられた札が3度引き抜かれ鴨川に捨てられていたために、新撰組に制札の警備が命じらたといいます。そして8名の土佐藩士が立札を抜くところを押さえ、逃走する土佐藩士を追い詰めるも8人中5人を逃してしまう失態を起こしてしまいます。

8人中5人を逃す原因を作った浅野は後に沖田に斬られたという

立札を守った恩賞を参加した新撰組隊員は貰いますが、土佐藩を逃がす原因を作った隊士・浅野薫は新撰組を追放されています。その後金策を行ったためとも、土佐に逃げようとしたためともいわれますが、沖田に斬られています。

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