新撰組とは?成り立ちや活動内容、主要メンバーを解説【組織図付き】

馬賊の頭目になった隊員がいた?

馬賊は盗賊団のイメージがあるが実は満州の自警団だった
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新撰組十番隊組長の原田左之助は、明治になってモンゴルの馬賊の棟梁になったという都市伝説があります。正史では上野戦争の時に負傷し、その傷が元で亡くなったことになってますが、実は生きていて大陸に渡り馬賊になったというものです。

日清・日露戦争の時に昔語りをする軍人がいて、その人が「原田左之助」と名乗ったと伝わっています。1907年に弟や甥に会って「満州に帰る」といって去っていったともいわれていますが、現実離れしているため眉唾的な話であるようです。“実はモンゴルに渡りチンギスハンとなった”という源義経の話と同じような「判官びいき」として何時しか噂が流れていったのかもしれませんね。

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新撰組で最強と呼ばれたのは誰?

撃剣師範だった永倉新八(前列右から二番目)
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新撰組は荒くれ者が多い分、実戦能力が高い隊士が多くいました。その中で最強候補はやはり一番隊組長「沖田総司」、二番隊組長「永倉新八」、三番隊組長「斎藤一」でしょう。

沖田の剣は“猛者の剣”と評される実力者でした。永倉新八は「永倉の方が沖田よりもやや実力が上」と隊の生き残りが証言しています。また斎藤一も「無敵の剣」と呼ばれ隊で最も多く人を斬ったといわれており、任務でもかすり傷一つ負わなかったといいます。

斎藤一、無敵の剣と呼ばれ明治まで生き残った人物だ
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その他にも槍の使い手「原田左之助」や、二刀流の使い手「服部武雄」などもおり一概に誰が最強と決めにくい所がありますが、一般的に最強は「沖田総司」といわれることが多いようです。普段の稽古では他の隊員たちを打ち負かし、本気になれば師である近藤よりも強かっただろうといわれていました。

後に肺結核にかからなければ、戊辰戦争でも新政府軍を苦しめたかもしれません。歴史に「もし」はありませんが、沖田が活躍していたらどうなったのだろうと想像してしまうのも、歴史の楽しみの一つではないでしょうか。

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新撰組に生き残りはいる?

九番隊組長・鈴木三樹三郎の写真
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新撰組の組長で生き残ったのは、「永倉新八」「斎藤一」「鈴木三樹三郎」です。局長・副局長・十番まである組長で生き残ったのが3人しかいないところが、如何に新撰組がハードな部隊だったのかがわかります。

永倉新八は明治に北海道の小樽に渡り、刑務所の看守に剣道を教えたり大学の剣道部を指導したりしたようです。そして斎藤一は明治には「藤田五郎」と名を変え、西南戦争に政府軍として参戦。その後警察官となったといいます。鈴木三樹三郎は、戊辰戦争で新政府軍側として戦っています。明治時代は司法・警察関係に従事したといわれています。

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新撰組の関わった主な事件

新撰組の関わった主な事件を紹介!
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1863年:八月十八日の政変

政変の時に朝廷から追放された公家・三条実美
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1863年の八月十八日の政変で、新撰組の前身「壬生浪士隊」は警備をし評価されました。この時の活躍で「新撰組」という名前を拝命したといわれています。8月18日の政変は、孝明天皇などの幕府委任攘夷の一派が、過激な尊王攘夷派公家と長州藩を朝廷から排除したクーデターでした。

この時新撰組はダンダラ羽織を身にまとい、52名全員が出動しています。この政変の時、門前の会津藩士が壬生浪士隊の存在を知らずに不審人物として、槍を局長・芹沢に突きつけたといいます。ここで浪士隊と門番の押し問答があったといいますが、壬生浪士隊を知る会津藩士が駆けつけたために事無きを得ています。

御所の南門の警備を行った
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御所内に入った浪士隊は、会津藩の「黄色のたすき」を渡されて士気が高まったといいます。そして南門前の警備を務めたのです。

1864年:池田屋事件

池田屋跡
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新撰組が京で一躍有名になるきっかけを作った事件です。事の発端は、不逞浪士を取り締まっていた新撰組が大量の火薬や武器を桝屋という店で発見します。そのため店の主人である古高俊太郎を束縛し、尋問。この時なかなか口を割らない古高に業を煮やした土方が惨い拷問にかけ口を割らせています。

内容は京の町に火を放ち、その混乱の中京都守護職の松平容保を討ち、天皇を長州に連れ去るというものでした。会合場所も分かり、時間がないことも分かったために新撰組は行動を起こすことになりました。

古高俊太郎邸跡
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そして御用改めとして池田屋に乗り込み、池田屋にいた20人程の浪士を近藤・沖田など10名が応戦しています。この時沖田が体調不良を、藤堂が額を斬られ戦闘不能となり新撰組の状況が不利になります。

しかし土方率いる援軍が到着し形勢逆転。多くの志士を討ち取ることができたのです。この後新撰組は京を見回り、多くの志士を束縛し連行しました。この時新撰組が駐屯に帰るとき、多くの見物客で溢れたといい、新撰組が一気に名を上げることとなった事件となりました。

1864年:禁門の変

禁門の変を描いた画
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1864年に京都を追放された長州藩が、起死回生のために会津藩や薩摩藩と戦闘した事件です。この時に新撰組は松平容保の命令で、竹田街道を警備していました。竹田街道は伏見からの侵入経路に使われる道で、一か月ほど会津藩と共に警備しています。

しかし長州が兵を引かなかったために、新撰組は200名程の隊士を連れて戦闘開始。しかし新撰組が到着したときには既に長州の兵は撤退しており、黒煙が上っていたために慌てて御所に駆けつけると長州の敗北が決していたので主に残党兵狩りをしています。この時は華々しい活躍といった様子では無かったようです。

1867年:油小路事件

暗殺された伊東甲子太郎
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油小路事件は新撰組から離脱した「御陵衛士」の一人である伊東甲子太郎を殺害した事件です。事の発端は、御陵衛士にスパイとして入り込んでいた斎藤一から、「伊東は近藤を暗殺しようとしている」という情報が新撰組に入ったためでした。

伊東甲子太郎殉難の地
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そのため近藤は伊東を自身の妾の家に招待し、酒を振る舞い帰路で待ち伏せし襲撃しています。伊東は「奸賊ばら(卑怯な賊ども)」と叫んで絶命したそうです。この時伊東の遺体は、御陵衛士をおびき寄せる囮として使われました。そして遺体を引き取りに来た御陵衛士の7名の隊員を襲い、この時に元八番隊組長藤堂平助が死亡しています。

1867年:天満屋事件

近江屋事件現場、ここで坂本龍馬が暗殺された
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天満屋事件でも、新撰組は紀州藩の護衛として参加していました。天満屋事件とは、海援隊が坂本龍馬の仇討ちとして紀州藩士を黒幕だろうと襲った事件でした。そのため、紀州藩は会津藩を通して新撰組に警護を依頼。そのため斎藤一を始めとした7名が紀州藩の三浦休太郎を警護することになりました。

そして襲撃があったときに斎藤一らの働きにより、結局三浦は顔を斬られた程度で助かっています。三浦を守ることができ、新撰組にとって護衛の使命がはたせた事件となりました。

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