足利尊氏とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や家系図、肖像画の謎も解説】

1331年 – 27歳「後醍醐天皇の決起」

下赤坂城の戦いで楠木正成と戦う尊氏
出典:Wikipedia

後醍醐天皇の執念

時を同じくして元徳3年(1331年)8月。何度も鎌倉幕府を討幕を企てた後醍醐天皇が、山城国笠置山(現・京都府笠置町)で蜂起します。更に後醍醐天皇の忠臣・楠木正成も呼応し、下赤坂城で戦いを宣言したのです。

北条家は後醍醐天皇と楠木正成の討伐の為、尊氏に出陣を命じています。実はこの頃、尊氏は鎌倉の地で貞氏の喪中の最中でした。尊氏は無理やり討伐に参加させようとする鎌倉幕府に強い不信感を抱いたとされます。

当時、対外的な戦いでは足利氏の人物を大将すると縁起が良いとされていました。鎌倉幕府はもともと、源氏の源頼朝が立ち上げたもの。北条家にとって足利家は「対外的な戦いの際に大将に命じる」為に重要な存在だったのです。

戦には強かった尊氏

後醍醐天皇の忠臣・楠木正成
出典:Wikipedia

尊氏は北条家に不信感を持ちつつも、後醍醐天皇の討伐に出陣。勝利に貢献します。ただ尊氏は腹を立てたのか、戦いが終わると朝廷に挨拶もせずに鎌倉に帰還。当時の上皇・花園上皇を呆れさせています。

ちなみに戦いの中で後醍醐天皇は捕縛され、隠岐の島に島流し。楠木正成は逃走して姿をくらまします。

1332〜1333年 – 28〜29歳「後醍醐天皇の決起(2回目)」

尊氏の息子・足利義詮(肖像画は藤原定能説あり)
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後醍醐天皇が隠岐の島から脱出する

正慶2年(1333年)2月に後醍醐天皇は隠岐の島を脱出し、船上山(現・鳥取県)に籠城。更に楠木正成も千早城(現・千早赤阪村)で蜂起します。この時に再度、尊氏に討伐の命令が下ったのです。

尊氏は鎌倉から京都に向かう事になりますが、妻と息子(義詮)は幕府側の人質として、鎌倉に残留させられました。2度にわたる幕府の意向に、尊氏は更なる不信感を募らせたとされます。

尊氏が鎌倉幕府を裏切る

鎌倉を制圧した新田義貞
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4月29日、尊氏は後醍醐天皇側につくことを決めました。八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げ、5月7日には幕府の重要機関・六波羅探題の攻め落としに成功しています。

時を同じくして、鎌倉の地では新田義貞が鎌倉を制圧。この時に尊氏の弟・直義の策略で義詮は鎌倉を脱出し、新田軍の陣営に加わっています。つまり足利家は六波羅探題と鎌倉双方で手柄を立てた構図になったのです。

結果的に鎌倉幕府は一連の戦いで崩壊したのでした。

1333〜1334年 – 29〜30歳「建武の新政」

高師直(肖像は過去には足利尊氏とされていた)
出典:Wikipedia

建武の新政

鎌倉幕府崩壊後、後醍醐天皇は「建武の新政」という新たな政治体制を作ります。後醍醐天皇は尊氏を「勲功第一」と高く評価。この時点で尊氏は「高氏」という名前でしたが、天皇の諱「尊治」から偏諱を受けて「尊氏」と改名しています。

ちなみに後醍醐天皇は武士達ではなく、朝廷を優遇する措置をとります。そのため、尊氏は要職に就く事はありませんでした。この一連の措置で後醍醐天皇は武士達から不興を買い、「尊氏なし」と揶揄されました。

ただ尊氏は高師直など、多数の家臣を建武の新政政権に送り込んでいます。通説では後醍醐天皇は尊氏を敬遠して、尊氏を要職に就かせなかったとされますが、尊氏自身が距離を置いた可能性もあるのです。

1335年 – 31歳「中先代の乱」

源頼朝像(足利直義説あり)
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尊氏は鎌倉へ戻る

建武2年(1335年)7月に鎌倉で中先代の乱が勃発。これは北条高時の遺児・時行が起こした乱でした。前述した通り、尊氏は後醍醐天皇の反対を振り切って京都から鎌倉に戻り、時行一行を撃退しています。

後醍醐天皇の意向を無視し始める

後醍醐天皇は尊氏の影響力が鎌倉で大きくなる事を危惧します。尊氏に「褒美をやるから京に戻るように」と話を持ちかけました。もちろんこれは後醍醐天皇の罠ですが、尊氏は騙されて京に向かおうとしたのです。

ただ冷静な直義の判断で、後醍醐天皇の誘いは無視する事が決まります。尊氏は鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を家臣などに与え始めました。後醍醐天皇政権に代わる、新たな武家政権を作る動きを見せたのです。

後醍醐天皇は尊氏の行動に激怒。鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞を派遣し、尊氏の討伐に動きます。後醍醐天皇に敵対された尊氏は「出家する」と意気消沈。

しかし直義が「出家しても皆殺し」という偽物の綸旨を尊氏に見せると、尊氏は反撃を開始します。尊氏はこのように精神的に不安定で、周囲が振り回される場面も多かったようです。

1335〜1336年 – 31〜32歳「建武の乱」

湊川の戦いで奮戦する新田義貞
出典:Wikipedia

建武の乱

11月頃から「後醍醐天皇 新田義貞vs足利尊氏」という戦いが勃発。一連の争いは「建武の乱」と呼ばれます。激しい戦いは以下の推移で進んでいきました。

  • 建武2年(1335年)12月
    • 箱根・竹ノ下の戦いで足利尊氏vs新田義貞の争いが勃発して尊氏が勝利する
  • 建武3年(1336年)正月
    • 尊氏が入京し、後醍醐天皇は比叡山へ退く
    • 楠木正成・新田義貞らに尊氏は劣勢となる
  • 2月
    • 豊島河原の戦いで新田軍に尊氏は大敗北
    • 尊氏は九州まで逃げ延び、後醍醐天皇は京に復権
  • 5月
    • 湊川の戦いで新田軍・楠木軍に勝利
    • 後醍醐天皇も京都から撤退し比叡山に退く
  • 6月
    • 尊氏は再び京都に戻り、京都を制圧する

一連の戦いは太平記などでドラマチックに書かれており、気になる方は調べてくださいね。長い戦いを経て尊氏は後醍醐天皇の勢力を京都から追い出す事に成功したのです。

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