足利尊氏とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や家系図、肖像画の謎も解説】

1336年 – 32歳「室町幕府と南北朝時代の始まり」

三種の神器(写真はイメージ) 出典:Wikipedia

京都に室町幕府が置かれる

尊氏らは10月に比叡山にいる後醍醐天皇と「和議」を結びます。後醍醐天皇は和議を受け入れ、11月2日に「三種の神器」を尊氏陣営に譲ります。三種の神器は「天皇を皇位継承したものが所有する宝物」でした。

この頃は後醍醐天皇、尊氏側が支持した光明天皇の2人が「自分が天皇である」と主張していました。尊氏側が三種の神器を手にした事で尊氏は「光明天皇こそが本来の天皇である」と主張出来たのです。後醍醐天皇はその後、幽閉されました。

南北朝時代の到来

11月7日、尊氏は新たな武家政権の施政方針である「建武式目」を制定します。実質的にはこの時が室町幕府の始まりとされています。

ところが12月21日に後醍醐天皇は幽閉先から逃亡。京から吉野(奈良県吉野町)に逃れ「自分が渡した三種の神器は偽物で、本物は自分が所有している」と主張したのです。そして自分の正当性を主張した独自の朝廷を宣言しました。

結果的に国内では光明天皇による「北朝」と後醍醐天皇が主張する「南朝」が存在する事になりました。

1337〜1349年 – 33〜45歳「幕府の舵取りを直義と高師直に委ねる」

後醍醐天皇が潜伏し吉野山
出典:Wikipedia

室町幕府の誕生と後醍醐天皇の崩御

ただ尊氏は後醍醐天皇の主張する南朝を無視。暦応元年(1338年)には尊氏は光明天皇から「征夷大将軍」に命じられ、本格的に室町幕府が誕生します。

ただ尊氏は後醍醐天皇への尊敬や畏敬の念を最後まで持ち続けていました。翌年に後醍醐天は南朝の正当性を主張したまま崩御。尊氏は後醍醐天皇を偲び、慰霊のために天龍寺造営を開始しています。

南朝勢力の削ぎ落とし

尊氏が建立した天龍寺
出典:Wikipedia

その後の室町幕府は南朝勢力の削ぎ落としに奔放します。後醍醐天皇を失った南朝はかつての勢いを失い、有力な武将の多くは討死。更に室町幕府に寝返る武将も多くいました。

貞和4年(1348年)には高師直が吉野を攻め落とすなどの活躍をみせ、南朝の制圧まであと一歩のところまで迫ります。

ちなみに尊氏は後醍醐天皇の崩御後は精神的に落ち込んでいました。政務は直義に任せ、自分は軍事指揮権と恩賞権を持ち、武士の棟梁として君臨。更に軍事指揮そのものも執事の高師直が握り、尊氏はあくまで神輿的な立場を貫いていました。

1349〜1351年 – 45〜47歳「観応の擾乱」

足利尊氏邸跡地
出典:Wikipedia

直義と高師直の対立

直義と尊氏(と高師直)の二元政治は徐々に対立を生み出します。貞和5年(1349年)に直義は師直の暗殺を画策して失敗。逆に師直陣営に返り討ちにあいます。この頃の尊氏の立ち位置は不明で、直義と師直の双方に良い顔をしていたともされます。

争いは尊氏が仲介に入り「直義は出家する」「直義の腹心の部下を流罪にする」と決まります。府内の争いは師直陣営の勝利に終わりました。尊氏は直義の代わりの政務担当として、義詮を鎌倉から京都に呼び出しています。

観応の擾乱勃発

高師直最期の地である武庫川
出典:Wikipedia

ただ争いはここで終わりませんでした。直義の処遇に立腹した足利直冬が、九州で勢力を拡大していたのです。直冬は尊氏の息子ですが、複雑な事情があり尊氏は子供として認知していません。子供のいなかった直義が直冬を養子にしていたのです。

直冬を討伐するべく尊氏は観応元年(1350年)に師直らを伴って九州に出陣。直義はこの機会を好機とみて京から脱出し、南朝と手を組んだのです。つまり「敵の敵は味方」という事ですね。

直義の勢力は強大となり、幕府を預かる義詮は直義軍に敗北。尊氏は京に戻るものの、観応2年(1351年)2月に尊氏軍と直義軍は摂津国(兵庫県芦屋市)で衝突します。尊氏は敗北し、高師直とその弟は和議の末に出家。後に殺害されたのです。

1349〜1351年 – 45〜47歳「直義死去」

足利尊氏像
出典:Wikipedia

直義の政務復帰

直義は義詮の補佐として政務に復帰。一連の戦いの勝者は誰が見ても尊氏ではなく直義でした。しかし尊氏は一連の戦いを「直義と師直の戦い」だと考えており、今まで以上に尊大な態度をとり続けました。

また直義側についた武将達も「高師直に反感を持つ者」が多く、師直亡き後は尊氏陣営に鞍替えする武将が続出。直義は再び政務から引退したのです。

直義の謎の死

その後も尊氏と直義の対立は続きました。身の危険を感じた直義は鎌倉に逃亡。10月に尊氏は敵対する南朝と和睦し、南朝から直義追討の綸旨を得ています。12月頃から尊氏軍と直義軍は激しく衝突し、直義は敗北したのです。

直義は鎌倉に幽閉され、観応3年(1352年)2月に急死(享年46歳)。太平記などの軍記物で直義は「毒殺」とされますが、「自然死」を主張する研究者もおり、定まっていません。

ちなみに政治に無関心だった尊氏も、義詮が政務に携わる頃から、政治にも積極的に関与しています。直義の養子で尊氏が敵対する直冬が台頭する事を防ごうとしたのかもしれません。

1352〜1357年 – 48〜53歳「観応の擾乱はその後も続く」

足利直冬
出典:Wikipedia

直冬の台頭

観応の擾乱は終結したものの、その後も北朝と南朝こ争いは続きました。尊氏が京から離れた時に南朝は和睦を破ったからです。南朝勢力は何度も京を占拠し、その後も尊氏陣営は京を奪還。尊氏は戦いに明け暮れる日々を送ります。

尊氏が苦戦を強いられたのは文和3年(1354年)。直冬が大陣営を組んで京に攻撃を仕掛けた時です。尊氏は京を放棄するものの、翌年には京を奪還。直冬の本陣に尊氏の軍が突撃して直冬を敗走させました。

1358年 – 54歳「尊氏死去」

足利尊氏の墓
出典:Wikipedia

尊氏死去

戦いに明け暮れた尊氏ですが、延文3年(1358年)4月30日に尊氏は死去。原因は背中の腫れ物ですが、先程の直冬との戦いで負傷したものと考えられます。

南北朝の争いのその後

尊氏死去後に新たな将軍に就任したのは義詮でした。義詮を中心に南北朝の争いは続きますが、徐々に北朝が優位なままで進んでいきます。

最終的に争いを終結させるのは3代将軍の足利義満でした。義満は尊氏が死去するちょうど100日後に誕生しています。

ちなみに尊氏と徹底的に争った直冬は、貞治6年(1366年)を最後に行方をくらましました。その後は義満の治世中盤まで存命だったとされます。

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