足利尊氏にまつわる逸話
逸話1「あの有名な肖像画は尊氏ではなかった」
足利尊氏の肖像画と言えば、騎馬した武者の肖像画が有名です。しかし馬具の家紋が高家のものである事から、「あの肖像画は高師直などの高家の人物」という説が出ています。近年の教科書では「足利尊氏」と掲載される事はなくなっているのです。
また皆さんも良く知っている源頼朝の肖像画ですが、こちらは頼朝ではなく、尊氏の弟である足利直義という説が提唱されています。今までは当たり前と思っていた事も、研究が進むにつれ当たり前ではなくなっているのです。
先程の頼朝像は「神護寺三像」の一つ。通説ではそれぞれが「源頼朝・平重盛・藤原光能の肖像画」とされていました。この通説も近年では否定され「源頼朝→足利直義・平重盛→足利尊氏・藤原光能→足利義詮」という説が浮上しています。
一連の肖像画については未だに多くの議論がされています。いつか議論に決着が着くと良いですね。
逸話2「尊氏が天下を取る未来は予言されていた?」
室町幕府を開き、武家の頂点に立った尊氏。その未来は予言されていたという説があります。それは足利家の祖・源義家が遺した予言でした。足利家には「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という置文が存在したそうです。
源義家から7代目の子孫にあたるのは「足利尊氏の祖父にあたる足利家時」という人物でした。しかし家時の生きた時代は1200年代後半。当時は鎌倉幕府が健在で、家時は天下を取る事が出来ません。
家時は「三代後の子孫に天下を取らせよと」と祈願し、置文を遺して自害したとされます。そして家時から三代目の子孫が尊氏と直義だったのです。「家時の置文」は存在した事は確実なものの、直義がそれを見たのは建武の乱から15年後の事でした。
また源義家の置文自体は存在が疑問視されています。当時は「幕府を開く事が出来るのは源氏の子孫である事」が条件とされ、家康もまた源氏の子孫とされます。義家の置文は足利家が幕府を開く正当性を主張する為の創作かもしれません。
逸話3「明治時代には逆賊扱いされていた」
尊氏の評価は各時代の時代背景により、コロコロ変わります。特に明治時代の評価は「朝敵」「逆賊」と酷評されました。これは幕末に天皇を敬う尊皇思想が芽生えた事、明治政府が「天皇を君主にした国家体制」だった事が原因です。
尊氏は後醍醐天皇と対立し「事を構えた」人物でした。そのため、明治から戦前にかけての評価は低かったのです。学校の授業で「天皇の歴史」を学ぶたび、子孫達は肩身の狭い思いをし、特に戦時中には身の置き場がない程でした。
ちなみに室町幕府最後の将軍・義昭の血筋は断絶。現在に続くのは「初代鎌倉公方・足利基氏の家系」と「11代将軍・義澄の実子・義維の家系」ですが、両者の処遇は実に対照的です。
基氏の子孫は後に大名となり、明治には華族となりました。一方で義維の家系は戦国時代に没落し、江戸時代には徳島藩で百石の捨扶持。更に明治維新後は華族ではなく平民となるのです。2つの家は全く異なる道を歩んでいきました。
足利尊氏の生涯年表
尊氏の最初の名は「高氏」という名前でしたが、本項目では尊氏で統一していきます。
1305〜1318年 – 0〜14歳「尊氏誕生」
尊氏誕生
尊氏は嘉元3年(1305年)に足利家当主・貞氏の次男として誕生。伝説では尊氏が産湯に浸かった時、山鳩が尊氏の肩に止まったとされます。ただ、これは尊氏を神格化する為だとされ、創作の可能性が高いです。
当時の足利家の立ち位置
鎌倉幕府では源氏の嫡流(頼朝の血筋)は三代で絶え、その後はずっと北条家が実権を握っていました。北条家に睨まれた有力な家柄は鎌倉時代を通して、次々と滅ぼされていきます。
足利家は源氏の血筋であり、本来は北条家に滅ぼされてもおかしくありません。歴代の足利家当主は北条家の血筋から正妻をもらう等して、北条家とうまく立ち回ってきました。
1319〜1331年 – 15〜27歳「元服と家督相続」
元服
元応元年(1319年)10月に尊氏は15歳で元服。更に従五位下という貴族の位階を叙爵されました。幼少期の尊氏は「又太郎」と言いましたが、この時に北条家の得宗である高時から「高」の字を賜り、「高氏」と名乗ります。
また尊氏は同じ年に赤橋登子という女性を正室に迎えています。赤橋家は北条家の分家の筆頭の名門。彼女と尊氏の間には、2代目将軍となる義詮や初代鎌倉公方となる基氏が生まれます。
家督を継ぐ
元徳3年(1331年)に尊氏の父・貞氏が死去。尊氏が足利家の当主となります。ちなみに尊氏は貞氏の次男で、家督を継ぐ立場にありませんでした。嫡男だった高義が文保元年(1317年)に亡くなった為、尊氏に出番が回ってきたのです。
貞氏は亡くなる直前まで、足利家の当主代理を務めたものの59歳で病没。尊氏は帝王学など、当主が学ぶべき学問を学ばないまま当主となるのです。後の尊氏の様々な行動は、これらの事情による影響も大きかったのです。