足利尊氏とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や家系図、肖像画の謎も解説】

矢傷による腫れ物で死去

尊氏の葬儀が行われた真如寺(現・京都市北区
出典:Wikipedia

尊氏は延文3年(1358年)4月30日に54歳で死去します。原因は背中に出来た腫れ物です。この腫れ物が何かは不明ですが、実子である足利直冬との戦いで受けた矢傷が悪化したものと言われます。矢傷が腫れ物になり、細菌感染を起こしたのです。

直義が死んだ後の尊氏は精神的に落ち込み、病気がちでした。それでも観応の擾乱の争いは続き、尊氏は直冬討伐の為に遠征を計画するものの、3月10日には腫れ物の悪化で断念。

その後は体調の変動を繰り返しながら、4月30日に亡くなりました。尊氏の死は多くの武将を悲しませ、死を慎む為に京中での魚の売買が禁止されています。

かつては仲の良かった尊氏と直義ですが、晩年は日本中を巻き込んだ大喧嘩に発展。最後には実子との戦いで負傷し、その傷が元で亡くなります。死の間際の尊氏には何が見えていたのでしょうか。

足利尊氏の功績

功績1「六波羅探題を攻め落とし、鎌倉幕府崩壊に貢献」

平安時代末期の六波羅
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尊氏は鎌倉幕府の崩壊に大きな貢献をしています。それは「六波羅探題」を攻め落とした事です。六波羅探題は「京の監視を行う為の鎌倉幕府の監視機関」でした。鎌倉幕府は京から離れており、六波羅探題は幕府における重要機関です。

「打倒鎌倉幕府」を掲げた後醍醐天皇の意志は全国に波及。元弘3年(1333年)2月には後醍醐天皇の忠臣と言われた楠木正成が「千早城の戦い」を起こします。圧倒的少数の楠木軍に鎌倉幕府は手こずり、全国に反乱の狼煙が上がりました。

後醍醐天皇は船上山(現・鳥取県)に籠城しており、幕府は尊氏に「後醍醐天皇討伐」を命じます。しかし尊氏は後醍醐天皇の誘いを受けて4月29日に反旗を翻しました。多くの反幕府勢力が尊氏につき、5月7日に尊氏は六波羅探題を滅ぼしたのです。

時を同じく鎌倉では新田義貞が東勝寺合戦で北条家を滅ぼしていました。尊氏と義貞の活躍により鎌倉幕府は崩壊したのです。

功績2「中先代の乱に勝利!戦はとても強かった」

北条時行の父親・北条高時
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尊氏はその後も軍事面で様々な功績を残します。建武2年(1335年)7月には北条高時の遺児である北条時行が挙兵。前述した中先代の乱が勃発し、直義は窮地に立たされています。尊氏は8月に直義と合流し、時行軍と激戦を交わしました。

時行軍は8月20日に鎌倉から逃亡。六波羅探題を滅ぼした尊氏は、今回も北条家に勝利したのです。この頃は後醍醐天皇の「建武の新政」に不満を抱く武士も多く、鎌倉幕府の再興の可能性もありました、中先代の乱の勝利で北条家の命運は尽きたのです。

尊氏は中先代の乱後に、後醍醐天皇に反旗を翻して室町幕府を立ち上げました。ある意味で一番美味しい立場にいたのは尊氏と言えます。

ちなみに松井優征の作品・逃げ上手の若君は北条時行を主人公に、足利尊氏を宿敵として描いた作品です。時行はその後も各地で潜伏を続け、1353年に捕らえられて処刑されたと伝わっています。

功績3「室町幕府の施政方針・建武式目を制定」

室町幕府は北条義時の政策を手本にした
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尊氏は建武3年(1336年)11月に室町幕府の「施政方針」を示した建武式目を打ち出します。「式目」とは箇条書き形式の制定法の事で、鎌倉時代の御成敗式目が有名です。一応は後醍醐天皇との戦いがひと段落ついたタイミングでした。

この建武式目は法律ではなく、尊氏と8人の僧侶や法学者との問答方式を書き記したもの。構成は2項17条となり、第1項では「幕府を鎌倉に置くべきか」、第2項では「どのような政治を目指すべきか」を問うています。

問いかけに対し「政道は土地よりも人が重要であり、鎌倉に幕府を置く必要はない」「北条義時・泰時の治世を政治の手本にする」と述べています。その他に「守護職は能力を重んじて任命する」「傍若無人なばさら者の否定」等を明確化しています。

この建武式目は幕府の施政方針となり、後の室町幕府のあり方に大きな影響を与えています。ちなみに建武式目は尊氏が制定するも、尊氏は政治的な事は無頓着。実際には政務に優れた直義の意向が大きく反映されていた可能性が高いです。

足利尊氏の名言

文武両道は車輪のごとし。一輪欠ければ人を渡さず

尊氏が死の前年に「等持院殿御遺言」という遺言に残した一節。文と武の双方があってこそ、初めて人は車輪のように前に進めます。思えば室町幕府は「武の尊氏」と「文の直義」の二頭政治で担われてきました。

幕府という車輪は観応の擾乱で脱輪していきます。この言葉には尊氏なりの思いが込められているのです。

よしあしと 人をばいひて たれもみな わが心をや 知らぬなるらむ

尊氏が詠んだ和歌であり、訳すなら「誰も皆、私の気持ちを分かってくれない」というところでしょうか。皆から好かれた尊氏ですが、心の奥底には鬱屈したものがあったのかもしれません。

天下を司る人は、天下を救い養う役なり。然る則は吾身の苦は、天地に溢るる程こそあるべけれ。

政治を行う者は、人々を救うのが役目です。だからこそ幕府のトップである尊氏の苦悩は天地に溢れるほどに多いと言えます。尊氏は将軍として並々ならぬ苦労をしてきたのです。

足利尊氏の家系図

足利将軍家の家系図(この時代を学ぶには尊氏の家系図が重要
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足利氏は1080年頃に、後三年の役で活躍した源義家を祖とする一族です。源頼朝と遠縁の血族であり、鎌倉時代には源氏の嫡流として他の武家から尊敬を集めていました。北条家に警戒されつつも鎌倉時代を生き延びています。

尊氏には高義という異母兄がいましたが、文保元年(1317年)に死没。尊氏が嫡男として育てられます。その他の兄弟として、一つ下の同母弟である直義がいます。2人の仲は当初はとても良好でした。

尊氏には多くの子息がおり、彼らの立ち位置は尊氏の生涯を学ぶ上で重要です。

  • 竹若丸:長男とされる。尊氏が六波羅探題を攻めた際に、北条氏の刺客によって刺殺される。
  • 義詮:正妻の子で、2代目将軍となる。
  • 基氏:義詮が将軍に就任した際に、鎌倉が手薄にならないよう鎌倉公方を設置。初代鎌倉公方となる。
  • 直冬:側室の子だが、尊氏は認知しなかった。後に尊氏と敵対する。

下の記事では室町幕府の将軍を一覧で紹介しているので、良ければ参考にしてください。

室町幕府の将軍を一覧で紹介!系図や補佐、覚え方も紹介

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