斎藤一の生涯年表
斎藤一は生涯に何度も改名しています。解説する際にはややこしいので、今回は表記を「斎藤一」に統一しますね。
1844〜1861年 – 0〜18歳「斎藤一誕生」
斎藤一誕生
斎藤は天保15年(1844年)1月1日に山口右助の次男として誕生します。江戸で生まれたとされますが、詳しい経歴は不明です。
幼少期の斎藤は「山口一」と名乗りました。子孫の伝承によると名前の由来は斎藤の誕生日が理由との事ですが、こちらも詳しくは不明です。
斎藤一の家族
ちなみに父と右助は明石出身ですが、江戸に下り旗本・則定鈴木家の御家人になったとされます。
斎藤の兄・山口廣明は明治に大蔵省の役人となり、裁判所に勤務。姉の勝は後に水戸藩の藩医に嫁ぎました。幼少期の斎藤は家族と慎ましく暮らしていたのではないでしょうか。
1862年 – 19歳「人を斬って京都へ逃れる」
人を斬る
斎藤は19歳の時に旗本と口論になり、その人物を斬り殺してしまいます。右助や廣明は斎藤の犯行が明るみに出ないよう、斎藤に京都に行くように命じました。
斎藤が頼ったのは吉田某という右助の友人。彼は京都で吉田道場を開いていた人物でした。斎藤は吉田道場で頭角を現し、師範代に登りつめました。斎藤はこの時に素性を隠す為、山口一から「斎藤一」に名を変えています。
近藤勇との接点は?
その一方で文久3年(1863年)正月に江戸幕府は「浪士組」の参加者を募っています。これは14代将軍・家茂が上洛する際に家茂の警護をする組織であり、清河八郎という人物が発案したものでした。
試衛館(江戸にあった天然理心流剣術の道場)の近藤勇ら8人は浪士組の参加を決意し、2月に京都に向かいます。
新撰組二番隊隊長・永倉新八の「浪士文久報国記事」によれば、斎藤は試衛館に出入りしていたと書かれています。しかし斎藤は19歳の頃から京都にいた為、真偽は不明です。※京都に行く前に近藤らと関わりを持っていた可能性はあります。
1863年 – 20歳「壬生浪士組と新撰組」
壬生浪士組結成
さて2月23日に近藤勇ら浪士組200余名は京都に到着。ただ浪士組の発案者・清河八郎が浪士組全員の署名が記された建白書を朝廷に提出してしまいます。清河は浪士組を幕府から切り離し、尊王活動に利用しようとしたのです。
この行動に近藤勇らは「将軍の警備を全うすべき」と反発し、清河らと袂を分かちます。浪士組の多くは江戸に帰還するものの、近藤勇ら13名は3月10日に新たに「壬生浪士組」を結成しました。同日に斎藤一を含めた11人が加入したのです。
「壬生浪士組」は会津藩藩主で京都守護職の任にあった松平容保の「お預かり」という立場に置かれます。壬生浪士達は身なりの貧しさから「身ぼろ」と京の人達に揶揄されていました。
新撰組発足
斎藤達は力士と乱闘騒ぎを起こすなど、チンピラまがいの事をしつつも、京都の治安維持の任務をこなしていきました。そんな新撰組は8月18日に起きた「八月十八日の政変」で京都の警備をした事が高く評価されます。
八月十八日の政変は「薩摩藩や会津藩が、過激な攘夷を掲げる長州藩と尊王攘夷派の公家を京都から追い出した」ものです。この政変を経て壬生浪士組は新たな隊名「新選組」を拝命。ようやく新撰組が誕生しました。
1863〜1864年 – 20〜21歳「池田屋事件と禁門の変」
池田屋事件と禁門の変
新撰組は元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件でその名を轟かせます。斎藤は突入した近藤勇の部隊ではなく、後から合流した土方歳三の部隊に所属。その時にどのようや行動を取っていたかは不明です。
7月19日に京都で巻き返しを図る長州藩と、会津藩や薩摩藩を中心とする幕府勢力による武力衝突事件「禁門の変」が勃発。
斎藤ら新撰組も200名ほどが参戦しています。ただこの時の新撰組は後手に回る事が多く、これといった活躍は出来ていません。
1864〜1866年 – 21〜23歳「新撰組が台頭する」
隊員募集の為に江戸に行く
池田屋事件と禁門の変を経て新撰組には200両あまりの恩賞が下賜されます。斎藤は9月に土方歳三や藤堂平助などの幹部と江戸へスカウトに行きました。斎藤らは伊東甲子太郎らの一派を連れ、32名の大所帯となり帰還します。
新撰組の中で頭角を表す
斎藤は新撰組の中で頭角を現しました。1864年12月の幹部編成の際には四番組隊長に就任。1865年4月には三番隊隊長に就任しています。斎藤は新撰組の中でも最強の一角だったのです。
やがて新撰組は200名を超える大所帯となります。ただ新撰組は規律に厳しく「内部粛清された隊士」は実に40人。理由は脱走や裏切りなど様々です。斎藤は組内の粛清役を担っていたとされ、武田観柳斎、谷三十郎の暗殺に関与したとされます。
1867年 – 24歳「御陵衛士に入隊」
伊東甲子太郎の裏切り
慶応3年(1867年)3月、意見の相違が続いていた伊東甲子太郎が、新撰組から「分離」を果たします。伊東は御陵衛士という孝明天皇の陵を守る組織を立ち上げ離脱。斎藤を含めた15人が新撰組を離脱しました。
ただ斎藤が離脱した理由は「伊東の行動を探る新撰組側のスパイ」だったからです。斎藤は伊東らが「近藤勇の暗殺」を計画している事、「江戸幕府と敵対する長州藩に寛大な処置を望んでいる事」を突き止めました。
油小路事件
斎藤の意見をもとに近藤勇らは伊東の暗殺を決意。11月18日、近藤は「金策や国事の相談」という名目で妾宅に伊東らを招き、宴会を開きます。帰路に伊東は新撰組の隊士により暗殺されたのです(油小路事件)。
斎藤は油小路事件の前に御陵衛士を離脱し、新撰組に復帰。この時に御陵衛士の活動資金を持ち逃げしており、金に困って逃げたように見せかけたのです。ちなみにこの年に斎藤は「山口二郎」と名を変えています。